人のセックスを笑うな (河出文庫)
作家の山崎ナオコーラさんの講演会に行ってきました(7/1@西南学院大学)。文学に興味のある方なら御存知の方も多いでしょう。ドネルモでも取上げられていた映画『人のセックスを笑うな』の原作者です。福岡出身埼玉育ち、まだ20代の若い作家さんで、初めての講演だったらしく、最初は緊張気味でした。が、お話はとても面白いものでした。「小説の役目は新しい男女関係を提示すること」etcいろいろ話されましたが、何より印象的だったのは、「作者の意図なんて考えず、積極的に誤読しましょう、それこそが読書で、そういう営みのうちに『小説』は成り立つのです! 」というナオコーラさんの「小説」に対する考え方でした。
ADIEU A X〔アデュウ ア エックス〕先日、再出版された中平卓馬の写真集『Adieu a X』(河出書房新社)を見ました。現在、中平は70歳を過ぎようかというおじいちゃんですが彼を題材に扱った『きわめてよいふうけい』(ホンマタカシ、2004)や『カメラになった男 写真家 中平卓馬』(小原真史、2006)などのドキュメンタリー映画も製作され、再評価の動きが高まっている写真家の一人です。
※ドキュメンタリー映画『カメラになった男 写真家 中平卓馬』は、北九州ビエンナーレでも2回上映される予定です(10/7の13:00〜、10/27の16:00〜@JR門司港駅2階)。
バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』
法による処罰とは、たとえば飲酒運転とか、たとえば窃盗とか、何かを「する」ことによって下されるものでしょう。ところが、いまの社会で何かを「しない」ことを選択し続けた場合にどうなるか。「しない」ことによって浮き立ってくるもの、そして「しない」人がたどり行く運命について、きわめて印象的なしかたで叙述したのが、一八五三年に書かれたメルヴィルの小説『バートルビー』です。
ムーたち 1 (1)
雑誌『モーニング』で連載中の漫画に、「モーニングで一番大好き」(自称)と言われる、『ムーたち』というマンガがあります。一回たった4ページのマンガです。しかしその中で「ムーさん」やその家族たちがさまざまな言葉遊びや行動にこだわります。するとありふれた世界の出来事や常識が、ちょっと言い方を変えればひどく滑稽なもの・不自然なものだと思えてきます。彼らの言動によって、こうなるのが当たり前と思っている状態が飛び越えられてしまうのです。
今日は「踊りに行くぜ」を見るため福岡の天神に出てきました。開演まで二時間はあるので、会場のIMSビルの中にある、新風社という出版社の喫茶コーナーで本を読むことにしました。ここのお店は福岡のおしゃれなカフェとは違って、本を長時間読むことが許され、かつ推奨されている数少ない場所なのです。
エドワード・ゴリーの『華々しき鼻血』には、次のような紹介文がついている。
【副詞というものにかつてない最大級の栄光を与えたゴーリーらしい言語感覚が光る大傑作】
この紹介文の通り、この作品は《副詞》という普段、何気なく使い、気にも留めなかった言わば、言葉の脇役に焦点をあてた絵本である。
反戦平和の何が悪い!時代遅れのどこが悪い!日本がいまだ右派に押し切られないのは、全国に生息する大量のリベラルおじさんの抵抗力のおかげである。日本の全てが石原慎太郎のような人間で埋め尽くされることを考えてみよう。教師も親父も、ニュースキャスターも、近所の八百屋のおじさんも、すべて石原になる日のことを想像しよう。いかに愚かに見えるとも、心優しい戦後民主主義の残滓こそ、いまだにあなたを守っている。そんなことを考えさせられる「SIGHT」(渋谷陽一責任編集、ロッキング・オン社)のリニューアルである。

フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883- 1924)はチェコ・プラハの小説家です。『海辺のカフカ』を書いた村上春樹に大きな影響を与えたことでも有名です。
カフカの小説は、一読するとすごく不条理です。いったい何のことを書いているのか、何を言いたいのかと頭をひねるばかりです。たとえば『カフカ寓話集』(池内紀編訳)に収録されている「断食芸人」という話があります。檻の中で断食をして、日々やせ衰える体を見せるという芸をする人の話です。
『「恋する力」を哲学する』という新書』を立ち読みしてみました。どうやら著者は、恋の対象を人間に限定しているらしく、「恋の力」もヒューマンな方向に理解しようとしていらっしゃる。人に恋するのは多いにかまわないのですが、でもモノに恋することも扱うべきなのではないか、そのような疑問を感じました。そもそも近代批判が叫ばれてからしばらく経っているのに、恋という極めて近代的な概念は、ほとんど反省されていないように思います。