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映画 | | 演劇

シャッターチャンスを超えていく−ウメカヨ・スーパーシャッターチャンス
梅佳代スーパーシャッターチャンス祭りIN FUKUOKA 2008.6/18~8/24 イムズプラザ(「うめめ」)、三菱地所アルティアム(「男子」、7/26からは「じいちゃんさま」)

うめめ
たとえば、こんな瞬間に出くわしたらどうだろう。駅内のロッカー前で遠出してきたと思しき家族のあたふたする様子が、なんともユーモラスな茶番劇のように見えてしまったり、または若い男と談笑するおばさんのさりげない仕草が、男を前に恥らう乙女のように見えてしまう瞬間。あるいは、鼻にイカのお菓子を付き挿して血眼になって自己主張してくるおバカな少年の姿が、なぜか「カッコよく」見えてしまう瞬間。こうした一瞬のシャッターチャンスをものにしたとすれば、その写真家は、普通「決定的瞬間」を収めたと言われるだろう。しかしこの「決定的瞬間」という言葉は、どうも梅佳代には似合わない気がする。

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人の「小説」を笑うな − ナオコーラを読む
山崎ナオコーラ、公開授業「大学で日本文学を学ぶということ(私も日文卒です)」(「読書教養講座」 活字文化推進会議、西南学院大主催、2008.7.1)

人のセックスを笑うな (河出文庫)
作家の山崎ナオコーラさんの講演会に行ってきました(7/1@西南学院大学)。文学に興味のある方なら御存知の方も多いでしょう。ドネルモでも取上げられていた映画『人のセックスを笑うな』の原作者です。福岡出身埼玉育ち、まだ20代の若い作家さんで、初めての講演だったらしく、最初は緊張気味でした。が、お話はとても面白いものでした。「小説の役目は新しい男女関係を提示すること」etcいろいろ話されましたが、何より印象的だったのは、「作者の意図なんて考えず、積極的に誤読しましょう、それこそが読書で、そういう営みのうちに『小説』は成り立つのです! 」というナオコーラさんの「小説」に対する考え方でした。

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「素朴」な写真家
『Adieu a X』(河出書房新社)、中平卓馬

ADIEU A X〔アデュウ ア エックス〕先日、再出版された中平卓馬の写真集『Adieu a X』(河出書房新社)を見ました。現在、中平は70歳を過ぎようかというおじいちゃんですが彼を題材に扱った『きわめてよいふうけい』(ホンマタカシ、2004)や『カメラになった男 写真家 中平卓馬』(小原真史、2006)などのドキュメンタリー映画も製作され、再評価の動きが高まっている写真家の一人です。

※ドキュメンタリー映画『カメラになった男 写真家 中平卓馬』は、北九州ビエンナーレでも2回上映される予定です(10/7の13:00〜、10/27の16:00〜@JR門司港駅2階)。

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いっしょにあそぼう!―『ごろごろ にゃーん』の読みかた

ごろごろにゃーんごろごろにゃーん
この絵本に出会ったのはある朝のニュース番組でした。400冊もの絵本を世に送りだしたという、“絵本の王様”長 新太さんの特集の中で、この絵本が特に紹介されていたのを偶然見たのです。長さんを知ったのはそれが初めてでしたが、私のように名前は知らなくても、絵を見ると「ああ、見たことある!」という人はたくさんいると思います。その番組の中で、「長さんの絵本は独特で奇想天外、予測不可能、独特のユーモア、脈絡の無い展開…」と紹介されていました。その代表格ともいえる絵本が、今回取り上げる『ごろごろ にゃーん』です。

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しないほうがいいのですがーバートルビーの場合
ハーマン・メルヴィル『バートルビー』(ジョルジュ・アガンベン『バートルビー-偶然性について』の付録、月曜社、高桑和巳訳、2005年)

バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』
法による処罰とは、たとえば飲酒運転とか、たとえば窃盗とか、何かを「する」ことによって下されるものでしょう。ところが、いまの社会で何かを「しない」ことを選択し続けた場合にどうなるか。「しない」ことによって浮き立ってくるもの、そして「しない」人がたどり行く運命について、きわめて印象的なしかたで叙述したのが、一八五三年に書かれたメルヴィルの小説『バートルビー』です。

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「迷信づくり」-『ムーたち』を読む

ムーたち 1 (1)
雑誌『モーニング』で連載中の漫画に、「モーニングで一番大好き」(自称)と言われる、『ムーたち』というマンガがあります。一回たった4ページのマンガです。しかしその中で「ムーさん」やその家族たちがさまざまな言葉遊びや行動にこだわります。するとありふれた世界の出来事や常識が、ちょっと言い方を変えればひどく滑稽なもの・不自然なものだと思えてきます。彼らの言動によって、こうなるのが当たり前と思っている状態が飛び越えられてしまうのです。

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平凡な劇的日常‐山本文緒の場合

プラナリア
平凡な日常でも、ちょっとしたことがきっかけで視点が変わり、今まで気付かなかった側面に魅力を感じたり、刺激を受けたりする。それは、平凡な日常に訪れる劇的な瞬間です。今回は、日常生活における他者との関係の「捉えなおし」をテーマにしている山本文緒という作家を紹介したいと思います。この作家は、他者とのごく些細なコミュニケーションの可能性を扱っているのですが、特に他者の言葉の捉え方によって、たちまち位相が転換してしまう局面を題材にしているのです。

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廃墟とダンスのあいだで
寺坂和則『廃墟の譜-私の心の和む風景』(新風社2006)

%94p%9A%D0%82%C6%83_%83%93%83X%82%CC%82%A0%82%A2%82%BE%82%C5.jpg今日は「踊りに行くぜ」を見るため福岡の天神に出てきました。開演まで二時間はあるので、会場のIMSビルの中にある、新風社という出版社の喫茶コーナーで本を読むことにしました。ここのお店は福岡のおしゃれなカフェとは違って、本を長時間読むことが許され、かつ推奨されている数少ない場所なのです。

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華々しき副詞への不毛なまなざし

華々しき鼻血エドワード・ゴリーの『華々しき鼻血』には、次のような紹介文がついている。

【副詞というものにかつてない最大級の栄光を与えたゴーリーらしい言語感覚が光る大傑作】

この紹介文の通り、この作品は《副詞》という普段、何気なく使い、気にも留めなかった言わば、言葉の脇役に焦点をあてた絵本である。

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リベラルおじさんを嗤うことなかれ

sight反戦平和の何が悪い!時代遅れのどこが悪い!日本がいまだ右派に押し切られないのは、全国に生息する大量のリベラルおじさんの抵抗力のおかげである。日本の全てが石原慎太郎のような人間で埋め尽くされることを考えてみよう。教師も親父も、ニュースキャスターも、近所の八百屋のおじさんも、すべて石原になる日のことを想像しよう。いかに愚かに見えるとも、心優しい戦後民主主義の残滓こそ、いまだにあなたを守っている。そんなことを考えさせられる「SIGHT」(渋谷陽一責任編集、ロッキング・オン社)のリニューアルである。

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「散乱する展示たち」の行く末

オープンカフェ現在われわれがアートと言っているものは、このままだと結局権力(資本や管理体制)に対して批判的になれないと思います。批判的な姿勢を取っているように見えるものでも、じつはその足もとをすくわれている感じがします。いわゆるアート的になればなるほど、むしろ権力に手を貸してしまっているようです。「アート・デザイン・クロッシングvol.2 散乱する展示たち」(古賀徹編著、九州大学出版会2005)を読んで、そんな気がしました。

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監禁とダンスと繁み、僕らの状況

サル文化の世界で生きていこうとするとき、人は袋小路を経験することになります。「どこにも行けない」というどん詰まり感です。この局面をフランツ・カフカは「ある学会報告」(『カフカ寓話集』岩波文庫)と題された短編において見事に描出しています。カフカの顔

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動物園の片隅でストイック芸は息絶えるーフランツ・カフカの「断食芸人」

カフカ 1
フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883- 1924)はチェコ・プラハの小説家です。『海辺のカフカ』を書いた村上春樹に大きな影響を与えたことでも有名です。

カフカの小説は、一読するとすごく不条理です。いったい何のことを書いているのか、何を言いたいのかと頭をひねるばかりです。たとえば『カフカ寓話集』(池内紀編訳)に収録されている「断食芸人」という話があります。檻の中で断食をして、日々やせ衰える体を見せるという芸をする人の話です。

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モノに恋する

『「恋する力」を哲学する』という新書』を立ち読みしてみました。どうやら著者は、恋の対象を人間に限定しているらしく、「恋の力」もヒューマンな方向に理解しようとしていらっしゃる。人に恋するのは多いにかまわないのですが、でもモノに恋することも扱うべきなのではないか、そのような疑問を感じました。そもそも近代批判が叫ばれてからしばらく経っているのに、恋という極めて近代的な概念は、ほとんど反省されていないように思います。

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