『ポニョ』と子供とハヤオの魔法(2/2)『崖の上のポニョ』(監督:宮崎駿,2008)
(1/2からのつづき)
さて掃除は終わった。もうドラマな物語をやる必要もない。まだ時間はたっぷりある。『ハウル〜』のときみたく急ぎ足になることなく、今回は思う存分、二人のためだけに有機的な世界を描くことができそうだ。と、計画通りに、映画後半でのハヤオはやりたい放題である。
(1/2からのつづき)
さて掃除は終わった。もうドラマな物語をやる必要もない。まだ時間はたっぷりある。『ハウル〜』のときみたく急ぎ足になることなく、今回は思う存分、二人のためだけに有機的な世界を描くことができそうだ。と、計画通りに、映画後半でのハヤオはやりたい放題である。
この夏、『崖の上のポニョ』(宮崎駿)と『スカイ・クロラ』(押井守)が同時に公開されていた。『ポニョ』は賛否両論(子供の評判がいまいちらしい)、『スカイ〜』は評判が良いようだ。もっとも、老若男女・大多数が足を運ぶジブリ作品とアニメ好きが中心だろう押井作品では、評判に差が出て当然なのかもしれない。ただ皮肉なのは、どちらかと言えばコアな人向けの『スカイ〜』の押井が常識的な内容を物語ろうとするのに対し、万人向けとされる『ポニョ』のハヤオはいよいよおかしくなっている、という点だ。押井は、今更ながら「終わりなき日常を生きろ!」と言う。一方ハヤオはといえば、「人間なんてね、いなくなればいいんですよ」と笑いながら、のほほんと絵本を描いている。語るべきは『ポニョ』だろう。
なんと破廉恥な!けしからん!と、学校のPTAなら怒り出すかも。ポール・トーマス・アンダーソン(通称PTA)監督の新作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の話である(〜6/13まで@シネテリエ天神)。もっと早くに観ておけばよかった。ロングランだったというから、福岡市民の多くも、この映画に破廉恥な妄想を抱いたに違いない。さすがは『ブギー・ナイツ』でポルノ業界をテーマにしたPTAだ。緻密な群像劇『マグノリア』、キュートなラブコメ『パンチ・ドランク・ラブ』に続くPTAの新作は、強烈な意志で石油を採掘するアメリカのオヤジ一代記だった。それは、母なる大地に掘削機をおったてて、飽くことなくピストン運動を続けるマザー・ファッカーの物語であった。つまりそれは、上から下へと何かが落ちたり、また下から上へと何かが吹き上げたりする、そんな上下運動に満ちたアメリカン・ポルノだったのである。
旬の話題を取り上げて、あれこれ放談するドネルモ・トーク・ア・ラ・モード。今回取り上げたのは、映画『14歳』(シネテリエ天神にて4月末に公開済)です。
「学校」というシステムが一体何であったのか。そしてそこでは、どのようなことが起きていたのか。大人になってからでは取り戻すことのできないあの頃の感情を扱ったこの映画を巡って、学校、教育、教師、いじめ、暴力のあり方等々、かつて14歳だったドネルモの人々が話しております。それでは、どーぞ。
他人の「のろけ話」を聞いて、どう思いますか?さしおり、「なんかむかつく」という人と「なぜか嬉しくなる」という人に分かれるとしましょう。で、とりわけ後者にお勧めしたい映画『人のセックスを笑うな』が、現在「大ブレイク上映中!」です(KBCシネマ)。というのも、この映画では、カメラの前で主人公のみるめ君(松山ケンイチ)とユリさん(永作博美)が、感動的なまでにいちゃつくからです。もっとも実はユリさんは人妻で、みるめは不倫の事実に悶々とします。更にユリさんは途中からいなくなるし、ストーリーとしてはハッピーエンドとは言い難い。それでも、映画はドロドロした不倫モノにはなっていません。失望感に沈むこともない。全編にわたって、フワフワとした幸福感が漂っているのです。
来月9月21日から、福岡と東京の2会場にて開催される「アート・オープン・カフェ(Art Open Cafe)」の申込受付が始まりました。「アート・オープン・カフェ」では、福岡にかかわりを持ち、各界の第一線で活躍されているゲストをお招きし、受講者のみなさまと、様々なテーマについてお話します。3回目となる今回は、個性的な文化都市福岡と東京の関係について考えます。ドネルモも、企画段階から参加しています。
講座の日程、申込方法等、詳しくは、公式HP(こちらをクリック)をご参照ください。
PROJECTION企画のメイン・イベントともいえる映画上映会に行ってきました。そこでは、大木裕之さんのいくつかの映像作品と、福岡でおもに80年代に盛んだったという実験映画運動の映像作品が上映されました。作品はどれもそれなりに面白かったのですが、そこで私が気になったのは作品を巡る語り口の方でした。
大木さんの作品については、様々な場所を訪れながら、そこで出会った人たちや風景を撮影し、それを独自に編集することで、自分と世界との関係を捉え直すといった趣旨の解説を主催のキュレーターの人からドネルモで事前に聞いていました。また会場で配られていた京都芸術センターの人の解説によると、「きわめて個人的な視点によって撮影されているがゆえに、大木の作品では、逆説的に普遍性が獲得されている」とのことでした。
しかし私には、正直に言って、それが何を意味するのかほとんど理解できませんでした。たぶんそれは、私が「わからない人」であるせいだとおもわれます。そこでわからない人なりに、そこで感じた疑問を書いてみようと思います。
黒沢清監督の新作『叫』(さけび)を観てきました(キャナルシティ13)。『CURE』や『回路』etc彼の作品ではよく暴力や幽霊が描かれます。新作の『叫び』では不可解な殺人事件を捜査する刑事・吉岡のもとに「赤い服の女」の幽霊が現れます。そして彼に向かって凄まじい声(?)で叫ぶのです。なぜ自分がこんな目にあうのかわからない吉岡は、次第に「俺、前に何かやったのかも・・・」と、自らの過去と向き合いはじめます。そんな吉岡を、「気にしなくていいよ。大事なのは今。」と優しく包む恋人・春江。ここでは、「赤い服の女」の幽霊と恋人・春江という二人の女性を通して、この作品をレビューしてみたいと思います。(以下、次の段落でいきなりネタバレを含みます)。
20世紀にピークを迎えたモダニズム芸術を規定する図式は、それが制度側か、それとも制度に対抗する自由なアヴァンギャルドか、というものでした。アートには前衛であることが求められ、形骸化した権力である制度を批判しそれを乗り越えるところに独創性が息づくと主張されました。そして社会運動もまた、国家権力や企業という「体制」の悪に抵抗して歴史を前進させる前衛主義に規定されていました。そうした図式の全面的転換を印づける古典的作品とも言えるのが、土本典昭監督の「わが街わが青春 - 石川さゆり水俣熱唱」です。
ドネルモの会(5/25)で観た映画「SHOAH」についての感想です。
映画を観た直後、感想を話し合う際、研究室に何やら言葉にしがたい重たい雰囲気が漂っているのを感じました。そんな中、最初に感想を話してくださった方の「まるでニュースを見ているようでした…」という言葉は印象的でした。普段TVで見るニュースは、実際に起こっている事件であるのにもかかわらず、リアリティを全く感じることができません。どんなに悲惨な事件であろうと繰り返しニュースを見ているうちに「慣れ」てしまい何も感じなくなってしまいます。
先日、三菱地所アルティアムで開催中のヤン・シュヴァンクマイエル展(〜6/4)を見てきました。シュヴァンクマイエルという長い名前のチェコ人は、特にティーンエイジャーたちに人気のある映像作家/画家で、僕が見に行ったときも、普段ギャラリーに足を運ぶことのなさそうなゴスロリの格好をした女の子たちが熱心に作品を見ていました。
今回の展覧会は、ヤンの作品と、昨年亡くなった彼の奥さんエヴァの作品を、100点ほど集めたものです。商業施設のギャラリーという決して恵まれたスペースを持たないアルティアムの中に、ところ狭しと並べられた不思議な絵画作品は、映像作品から流れる単調な音楽とともに、さながら御伽噺の中の世界に迷い込んだような空間を形作っていました。ゴスロリの格好をした女の子たちも、シュヴァンクマイエルの作品が与えるそうした感覚を楽しんでいたと思います。
GW。よい天気です。志賀島や海の中道方面へちょっとドライブにでも、という方にお勧めの曲があります。
ジム・オルークの《Eureka》です。
さて肝心のフェラーリに関する映画《ある抽象的リアリスト》なのですが…