人のセックスを笑うな (河出文庫)
作家の山崎ナオコーラさんの講演会に行ってきました(7/1@西南学院大学)。文学に興味のある方なら御存知の方も多いでしょう。ドネルモでも取上げられていた映画『人のセックスを笑うな』の原作者です。福岡出身埼玉育ち、まだ20代の若い作家さんで、初めての講演だったらしく、最初は緊張気味でした。が、お話はとても面白いものでした。「小説の役目は新しい男女関係を提示すること」etcいろいろ話されましたが、何より印象的だったのは、「作者の意図なんて考えず、積極的に誤読しましょう、それこそが読書で、そういう営みのうちに『小説』は成り立つのです! 」というナオコーラさんの「小説」に対する考え方でした。
「踊りに行くぜ!! 福岡公演 出演者選考会+ダンスディスカッション」に行ってきた(6/22@あじびホール)。今秋開催予定の本公演(10/4@イムズホール)のための選考会である。年を重ねる毎に、福岡の選考会は着実に層が厚くなっている。今回は出場者が11組、選考会は5時間以上に及んだ。参加者も沖縄や岩国など福岡以外からも集ったようだ。選考会場はほぼ満席。恒例となったクリティカルレスポンスプロセス(ダンサーを交えた批評会のようなもの)でも積極的な発言がみられた。福岡のダンス波、いよいよ高し!
ところが選考会を観終えた私は、自己嫌悪に捉われていた。なぜか?どうにも私はこの波に乗れないからである。実際の風潮と私の印象は間逆の関係にあるわけだから、こうなると私に何らかの問題があるとしか思えない。楽しめない私がどこかできっと間違っているに違いない。以下の文章は、私の懺悔録である。
なんと破廉恥な!けしからん!と、学校のPTAなら怒り出すかも。ポール・トーマス・アンダーソン(通称PTA)監督の新作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の話である(〜6/13まで@シネテリエ天神)。もっと早くに観ておけばよかった。ロングランだったというから、福岡市民の多くも、この映画に破廉恥な妄想を抱いたに違いない。さすがは『ブギー・ナイツ』でポルノ業界をテーマにしたPTAだ。緻密な群像劇『マグノリア』、キュートなラブコメ『パンチ・ドランク・ラブ』に続くPTAの新作は、強烈な意志で石油を採掘するアメリカのオヤジ一代記だった。それは、母なる大地に掘削機をおったてて、飽くことなくピストン運動を続けるマザー・ファッカーの物語であった。つまりそれは、上から下へと何かが落ちたり、また下から上へと何かが吹き上げたりする、そんな上下運動に満ちたアメリカン・ポルノだったのである。
日本人によるクラシック演奏団体BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)の演奏会に行ってきた(2008,6,12@アクロス福岡)。その演奏に透けて見えたのは、とある「逆襲」の計画である。それは、日本のクラシック演奏家をいじめてきた西洋近代の音楽観への「逆襲」だ。西洋近代音楽は、旋律やリズムや和声を不断に発展させる展開の妙にこそ、芸術的意義を見出した。そこで音楽は、記憶の芸術であり、聴き手の記憶の中で、感情のドラマになったり、巨大な構築物としてそびえ立ったりするものだった。そして演奏は、そういうプロセスを適切に表現すべきだった。
だがBCJは、この考え方に反発する。音楽を感情や知性で捉えるのではなく、ひたすら感性の次元で享受すべきものと考える。BCJよれば、音の背後に感情の起伏やら偉大な精神やら聴くなんて、おかしな話だ。音楽はもっと、純粋に音と人間が関わる局面にあるはずだ。そんな局面に、西洋近代音楽の出発点と目されているバッハを還元してしまおう。だってバッハは、いや音楽は、もともとそんな局面での営みのはずなのだから。そのようにして、BCJの逆襲計画は進んでゆくのである。
ボルドー市と福岡市は姉妹都市であり、その交流事業の一環として今回の演奏会が催されました(アクロス福岡、2008/5/8)。その演奏から見えてくる文化交流とは何だったのでしょう。
プログラム前半は、ラヴェルの組曲『クープランの墓』とモーツァルトのクラリネット協奏曲。そこで指揮者クワメ・ライアンとボルドー管は、「これぞクラシック」とでもいうべき、きわめてオーソドックスな演奏を繰り広げました。適切な配置を与えられた音は重力のくびきから離脱し、その様はあたかもクラゲや雲のようにふんわりと、ゆったり呼吸するかのよう。とりわけモーツァルトでは、多彩なクラリネットの響きにオケが完全に寄り添うように一体化しておりました。まさに天にも昇らんばかり。揺りかごが優しくたゆたうようなあまりの心地よさに、眠ってしまう人が続出でした。それは実に正しい鑑賞態度だったと言えましょう。さすが福岡市民、西洋文化の本質を身体レベルで捉えていたのですね。

【ドネルモでは、先日のチェルフィッチュ『フリータイム』(@北九州芸術劇場.4/4‐5)を巡って、座談会を企画しました(4/20)。その模様は近日中にアップ予定です。それに先立ち、座談会に参加できなかったライターからレビューの投稿がありました。以下に掲載いたします。】
自分自身の生活秩序を自ら作り出す能力として自由を定義するならば、チェルフィッチュ「フリータイム」で描き出された「自由」とは、なんと窮屈なものであろう。とある「派遣の女性」が出勤前にファミレスで朝の30分をすごす。彼女はそこで自分の日記を書くのだが、それは自分にだけ分かればよいので、ぐるぐるとした線になってしまう。そういう彼女の意識のありようが、例によって様々な人たちの推測・伝聞というかたちで報告されていく。
アジアのコンテンポラリー・ダンスについてレクチャー・イベントが開催されたので行ってきました(2月8日@アジア美術館・あじびホール)。この企画は、今月末に開催される「アジア・コンテンポラリー・ダンス・ナウ!」(2月23日、24日@ぽんプラザホール)のプレ企画です。
アジアのダンスの現在を一挙に観られるこの公演、とりわけピチェ・クランチェン(タイ)に私は惹かれています。彼はタイの古典舞踊「コーン」の語法を知的に分析・解体し、それを振付の素材として再構成しているとのこと。なんとアジアにフォーサイス的思考が!ピチェ流コーン・メソッドに基づく身体が空間と高密度で絡んでいる様は、しっとりとして静謐な、しかし緊張感に満ちた腕の動きからも感じられましょう(出演予定のアーティスト映像を、福岡文化芸術振興財団のHPで見ることができます)。他にも、パプア部族のダンスに由来するステップをヒップ・ポップと融合させたというジェコ・シオンポ(インドネシア)等々、躍動するハイブリッドな身体の様相を存分に楽しむことのできるまたとないチャンスです。みなさま、どうぞお見逃しなく!

韓国は、日本の植民地支配から独立を勝ち取った1945年以降、軍事独裁政権による抑圧に苦しみ、その支配と影響が緩和されるに至ったのは、ようやく1990年代になってからのことであった。その間、韓国の造形芸術は、いわゆるグローバルスタンダードに即したモダニズム芸術を発展させる一方で、もう一つの底流、かつて支配政権によって「民衆芸術」とさげすまれた芸術の伝統を培っていた。
これまで政治的抑圧ゆえにほとんど外部に知られることのなかったそうした「リアリズム」芸術の作品を日本で初めて本格的に紹介するのが、現在福岡アジア美術館で開催中の「韓国美術のリアリズム1945-2005」展である。
【左画像:洪成潭(ホン・ソンダム) 「浴槽―母さん、故郷の青い海が見えます」 1996年 193x122 ソウル市立美術館】
◆右画像をクリックすると大きくひらきます。
【申鶴(シン・ハクチョル)「韓国現代史―カプトリとカプスニ」 2002年 カンヴァス、油彩 200x1952 韓国国立現代美術館】
アート・オープン・カフェ(Art Open Cafe:AOCと略)がついに始まりました。福岡シリーズ第1回には多くの方々にご来場いただきました。ありがとうございます。
AOCでは毎回の講座の内容、みなさまからのご意見・ご感想をまとめた「アート・オープン・カフェ通信」をアップしていく予定です。AOCのHP(こちらをクリック)を現在調整中ですので、暫定的にドネルモに掲載いたします。お越しになった方はもちろん、興味をお持ちの方、是非ご覧ください。
■アート・オープン・カフェ通信 vol.1-1■ text:ファシリテータ 古賀徹
アートの後のアート なぜいま北九州ビエンナーレか 2007.9.21.@イムズ10F会議室
ゲスト:宮川敬一さん(アーティスト、北九州国際ビエンナーレ・ディレクター)
福岡第一回目は、AIKの宮川さんをお迎えして、「アートの後のアート」という題名で、おもに北九州国際ビエンナーレを中心にお話を伺いました。お話を振り返りつつ、その背景などについて、古賀なりの見方を述べてゆきたいと思います。

イムズホールで、珍しいキノコ舞踊団の公演「あなたの寝顔をなでてみる。」を観てきました(イムズホール、8/17)。珍しいキノコ舞踊団は、女性によるダンスカンパニーで、関東を中心にかなり人気もあるらしい。アレッシィというイタリアの家具ブランドがありますが、キノコのダンスの印象を一言で申せば、「アレッシィみたいなダンス」と言うことになるかと思います。彼女達は、他愛もなく会話するように、他愛もなくダンスするのですが、それらが、なにかちょっと可愛らしく、きれいに見えてしまうのです。

来月9月21日から、福岡と東京の2会場にて開催される「アート・オープン・カフェ(Art Open Cafe)」の申込受付が始まりました。「アート・オープン・カフェ」では、福岡にかかわりを持ち、各界の第一線で活躍されているゲストをお招きし、受講者のみなさまと、様々なテーマについてお話します。3回目となる今回は、個性的な文化都市福岡と東京の関係について考えます。ドネルモも、企画段階から参加しています。
講座の日程、申込方法等、詳しくは、公式HP(こちらをクリック)をご参照ください。
今月頭に開催された『Physical integration〜身体とメディアの融合〜』は、これからの福岡のパフォーマンス文化にとって興味深い問題を考えさせるイベントだったと思います。このパフォーマーとメディア・アーティストのためのワークショップ(WS)には、Dance and Media Japan、韓国のデザイン大学sadiなどから講師が呼ばれ、福岡で活動するパフォーマー、それに福岡と韓国のメディアデザイン系の学生らが参加。5つの班に分かれ二日間のWSの後、その成果を約5分の作品として発表しました。

福岡市美術館にて展示中のロベール・カエン展にいってきた。ロベール・カエン(Robert Cahen)は、フランスにおけるビデオ・アートの草分け的 存在であり、今日最も重要視されているビジュアル・アーティストのひとりである。現在展示中の8作品のうち、とりわけ『Tombe(落下/墓)』(1997年)というタイトルの付いた作品が印象的だった(右画像)。これは、ブルーを背景とした縦長のスクリーンに、人形、シャツ、椅子、皿など様々なモノの落下してゆく様が、ひとつひとつ淡々と映し出されてゆくビデオ・インスタレーション作品である。時折気泡らしきものが見られるため、おそらくこれは水槽の中に様々なモノを落とす様子を撮影したものだと思われる。
6月9日に行われた「踊りに行くぜvol.8」福岡選考会には、6組の参加があった。各組各様のパフォーマンスを期待したが、予想を超えるものを見ることができた。特に目を引いたのが、4組目の「CHAOS J.P.」(KARAS)である。ある意味では、様式として固まりつつあるコンテンポラリー・ダンスに一石を投じたといえるだろう。
来月9月21日から、福岡と東京の2会場にて開催される「アート・オープン・カフェ(Art Open Cafe)」の申込受付が始まりました。「アート・オープン・カフェ」では、福岡にかかわりを持ち、各界の第一線で活躍されているゲストをお招きし、受講者のみなさまと、様々なテーマについてお話します。3回目となる今回は、個性的な文化都市福岡と東京の関係について考えます。ドネルモも、企画段階から参加しています。
講座の日程、申込方法等、詳しくは、公式HP(こちらをクリック)をご参照ください。
遅くなってしまいましたが、今月頭にあったチェルフィッチュ『三月の5日間』(5/2:イムズホール)のレビューです。ひたすら感銘を受けました。演劇に詳しくない私が思うに、保坂和志の小説(『プレーンソング』etc)、今放送中のアニメ『らき☆すた』(特に第1話)、高野文子の漫画(『奥村さんのお茄子』etc)、ユスターシュの映画『ママと娼婦』、福岡関係ではアマンダ・ヘンの『おしゃべりしましょう』etcでなされていたこと−一見無駄話に思える「日常会話」が、人の意思とは無関係に独自に繰り広げる運動やリズムを扱う試み−が、実にスマートに舞台化されていました。舞台上には、言葉が自分の思っていることを伝える手段としてはいまいち不適切であること、そんな不十分なメディアではあるが、しかしそれでもなお自分について語り、他人と関わろうとする僕たち私たち、そこで生じる他人との、そして自分自身との距離感etc、まったく、他人事とは思えないアクチュアリティがあったのです。
(左の画像はDVDのパッケージ)
PROJECTION企画のメイン・イベントともいえる映画上映会に行ってきました。そこでは、大木裕之さんのいくつかの映像作品と、福岡でおもに80年代に盛んだったという実験映画運動の映像作品が上映されました。作品はどれもそれなりに面白かったのですが、そこで私が気になったのは作品を巡る語り口の方でした。
大木さんの作品については、様々な場所を訪れながら、そこで出会った人たちや風景を撮影し、それを独自に編集することで、自分と世界との関係を捉え直すといった趣旨の解説を主催のキュレーターの人からドネルモで事前に聞いていました。また会場で配られていた京都芸術センターの人の解説によると、「きわめて個人的な視点によって撮影されているがゆえに、大木の作品では、逆説的に普遍性が獲得されている」とのことでした。
しかし私には、正直に言って、それが何を意味するのかほとんど理解できませんでした。たぶんそれは、私が「わからない人」であるせいだとおもわれます。そこでわからない人なりに、そこで感じた疑問を書いてみようと思います。
rGb(random Gravity box)の二つの作品「untitled」と「tower」を見た(PROJECTION 北九州−福岡ビデオアート‘07、旧百三十銀行ギャラリー、4/30)。どちらの作品も、私たちが普段知らぬ間に影響を受けているシンボル(ブランド)の力を、簡潔かつ絶妙な仕方で表現しているといえるだろう。そしてそれはまた普段ブランドを駆使するデザインに対してもユニークな態度を示しているようにも思われる。
先週のドネルモ・ミーティング(4/19)は、現在福岡と北九州を会場に開催されている「PROJECTION 北九州-福岡 ビデオアート 07」(4/14-5/6:ドネルモもカタログのテキストetcで協力)を企画運営するin-betweenの方による展覧会についてのプレゼンだった。
1970年代福岡では、低コストで扱いやすい8ミリビデオを使ったアート運動が盛り上がったそうだ。当時は様々な分野のアーティストがこぞって8ミリビデオ作品を制作したらしい。その魅力は映画・テレビなどの巨大資本なしで、個人の作家が動画の編集や表現をできるようになったことだろう。しかしビデオ・アートの新しい可能性を夢見た当時と異なり、現在のビデオ・アート作品を斬新なものと見ることは難しいように思える。というのもビデオというメディア自体が一般にも普及し、簡単に動画の編集が可能となり、そうした個人の編集作品がネット上にも様々な動画投稿サイトで見られるようになったことで、アーティストが撮ったものを特権的にアート作品として上映することに対して、どうしても疑念が生じるからである。つまり「誰でもアーティスト」の様相を呈する今、あえてビデオ・アートの領域を保持することが問題となるのである。
展覧会の絵&子供のアルバム
アクロス福岡では、ここのところ毎週のようにコンサートが催されています。『福岡グランドクラシックス2007』という企画らしく、ちょっとした春の音楽祭といったところでしょうか。先々週(4/13)のD・ギャレットというヴァイオリニストのリサイタルは、ヴァイオリンの音色が終始単調で美しくなく、僕にはいただけませんでした。が、先週のウラディーミル・フェルツマンのピアノ・リサイタル(4/20)は、期待以上に素晴らしいものでした。フェルツマンはあごひげを蓄えた初老の紳士(上画像)。音色の表情が豊かで、荒々しく下品にならない強音もさることながら、とりわけ優しく愛しむように弾く弱音のきれいな、繊細なピアノを弾く人でした。で、何より曲の解釈が変でした。
レオ・ムジックによるダンス・ワークショップ(ダンスコミュニケーション Co.D.Ex.の企画)を見学させていただきました。ムジックのワークショップは、実際に踊らず見ているだけでもかなり面白いものでした。それはまさに肉体を言語化するプロセスを実演しているという感じだったのです。
ムジックの主張は、とにかく「どうして肉体がそのように動くのかを理解しろ」ということに尽きるようです。つまり肉体の動きには固有の論理があり、それを踏まえなければ動きに説得力が生まれない、という発想のもとでトレーニングが組まれていました。逆にいえば、天才的なダンサーの独創性やオリジナルな感情の表れが必ずしも必要ではなく、肉体の各部分の分節された動きを一つ一つ緻密に積み上げるという原理的には誰でもマスターできる方法論によって、十分ダンスの質は高まるともいえます。
黒沢清監督の新作『叫』(さけび)を観てきました(キャナルシティ13)。『CURE』や『回路』etc彼の作品ではよく暴力や幽霊が描かれます。新作の『叫び』では不可解な殺人事件を捜査する刑事・吉岡のもとに「赤い服の女」の幽霊が現れます。そして彼に向かって凄まじい声(?)で叫ぶのです。なぜ自分がこんな目にあうのかわからない吉岡は、次第に「俺、前に何かやったのかも・・・」と、自らの過去と向き合いはじめます。そんな吉岡を、「気にしなくていいよ。大事なのは今。」と優しく包む恋人・春江。ここでは、「赤い服の女」の幽霊と恋人・春江という二人の女性を通して、この作品をレビューしてみたいと思います。(以下、次の段落でいきなりネタバレを含みます)。
響きの考古学 増補―音律の世界史からの冒険
先日、「植物の声から生まれた音楽」を聴いてきました。「植物文様」デュオ(ヴァイオリンと笙【しょう】)・コンサートです(サンレイクかすや、3/2、入場無料)。笙といえば、お正月の初詣の際にぷひゃーっと聞こえてくるあれですが、この度の笙はそれとは全く別のものに感じられました。石川高さんという名手による笙は、空間全体にふわーっと拡散してゆくかのような響きで、それは聴いていてこの上なく心地よいものだったのです。とりわけヴァイオリン低音の和音と笙の和音が交互に奏でられた箇所。極めて静かなやりとりだったにもかかわらず、それぞれの響きがたなびきつつ交差する様には、こちらの耳の奥もシンクロしてしまい、頭の芯をぬらぬらと愛撫されるような感覚を覚えました。
賑やかで楽しげな雰囲気もさることながら、それでもやはり私の印象に残ったのは、その雰囲気を支えていると思しきパフォーマーのホスピタリティの精神でした。ダンスコミュニケーションCo.D.Ex.の『黒猫CafeRickety』(ぽんプラザホール、1/29)は、三人の踊り手と一人の役者、それに鍵盤楽器、ギター、ジャンベ、ウッド・ベース、サックス、ハングetcといった音楽隊、さらには映像作家による、ノン・ジャンル的なパフォーマンスです。たしかに表向きは自由な雰囲気に溢れていました。最後のほうなど、「1月29日、今日は朝からイライラ、美術館の作品を全部壊したい気分だー!」と宣言され、音楽はドンドコいよいよ活気付き、踊り手は踊りまくり、バックの映像はもちろん「裸」です。NHK紅白のOZMA騒動でも明らかなように、裸は自由な表現の象徴なのでしょう。

博多織ということで伝統的な着物のショーだとばかり思っていましたが、和服はただの一つもなく、まるでクレーの抽象絵画のような洋服たちにしばし圧倒された30分でした。最初に登場した酒井洋子さんの『風まとう』シリーズはどれも息をのむほどに美しく、とりわけ6番目の「着物風ドレス」では白地に映えるローズピンクのグラデーションに引き込まれそうでした。
伝統的な織物を現代的にアレンジするという手法は、たとえば革製のバックに着物の帯の柄をあしらうなど、えてして和洋折衷的なものとなり、洗練には今ひとつとなりがちです。しかしながら今回のショーでは、ほとんどの作品がそうした危険から免れてたように思うのです。(画像:NOZOMI ISHIGUROデザインの靴)
一人芝居を観て来ました。ぽんプラザホールで定期的に開催される火曜劇場のシリーズで、今回は仙台からやってきたoffice-over.の『ウエストバージニア州立大学最期の学内放送』という演目でした(1/22:ぽんプラザホール)。上演時間、30分足らず。これは、特筆すべき点かと思われます。ダラダラすることなくすいすい進みました。短いけれども、テキストはまとまっており、演出も緻密、一人芝居独特の面白さも加味された「作品」でした。以下では、演劇素人の僕が思う、面白かった点といまいちだった点について書いています。
大学の敷地を意味する「キャンパス」という言葉は、オープン・スペースを意味するラテン語のcampusから来ている。だがこのラテン語に由来するもう一つの英語がある。それはキャンプである。キャンプとキャンパスはいわば兄弟のような言葉なのだ。ところがこのキャンプという言葉は、concentration camp(強制収容所)という用語法に見られるように、ある特定の属性を持つ人たちを集めて閉じ込める「収容所」という意味を持っている。九大伊都「キャンパス」から感じるのは、この「キャンプ」の響きである。