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   <subtitle>◆準備中です。◆コメントされる方へお知らせ！　サーバーの調子が悪いらしく[投稿]をクリックするとエラーが表示されてしまいます。が、一回のクリックで投稿は完了しております。何度かクリックすると、そのクリック回数分投稿されてしまいますので、ご注意ください。</subtitle>
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   <title>ライプとケルパー、二つの身体のあいだで</title>
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   <published>2007-08-08T21:30:30Z</published>
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   <summary>サシャ・ヴァルツ＆ゲスツによる「ケルパー」を見てきました。ほとんどいわゆる踊りら...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://dlmblog.jpn.org/">
      <![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/3/a/3a8018b9.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/3/a/3a8018b9-s.jpg" width="160" height="226" border="0" alt="ケルパー" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><br><br><br>サシャ・ヴァルツ＆ゲスツによる「ケルパー」を見てきました。ほとんどいわゆる踊りらしい踊りもなく、ほぼ全裸のダンサーたちが、狭い箱のなかに折り重なったり、みなで並んでペンギンのようによちよち歩きをしたりといった感じで、普通の意味でのキレのいい美的なダンスを期待した観客には失望を与えていたようでした。しかしそこには、現代人が避けて通ることのできない身体のあり方が問題として提示されているように思いました。]]>
      <![CDATA[演目の「ケルパー」とはドイツ語で「身体」を意味します。生き生きした身体を表すもう一つのドイツ語「ライプ」と比較して、この言葉には物体、死体というニュアンスがつきまとい、人間の身体のモノとしての側面が強調されているように感じます。振付家のサシャ・ヴァルツによれば、この作品はベルリンのユダヤ博物館での公開演技から発展したそうで、そこにはホロコーストにおける身体のあり方がテーマとされているようでした。

ユダヤ人たちは、ナチスによっていきなりガス室に送り込まれたのではなく、ユダヤ人たちの法的権利を一つづつ制限し、社会的関係から排除してゆく周到な法律的手続きがそれには先行していました。ユダヤ人たちは、ありとあらゆる社会的属性を剥奪され、絶滅収容所に向かう貨車の前で最後に名前を呼ばれ、そのあとは文字通りたんなる生きる物体として扱われました。そうした政治的剥奪があってはじめて、ユダヤ人達を「合法的」に「屠殺」することが可能となったのです。

社会的な生が緩慢に窒息させられ、たんなるむき出しの生命にされたブツたちが踊らざるをえない踊り、それをあえて窮屈に踊ることによって、そうした物体であらざるをえない存在の可動性の余地が表現されているように感じました。

私は公演の翌日、大阪の釜ガ先地区に迷い込みました。そこにはもはや労働が困難となった数万もの中高年の男性たちが昼間から路上をさまよっているようでした。身体は内側から充実されることなく、ほとんど動かず、目もうつろでした。ユダヤ人たちが政治的な剥奪を受けたとすれば、彼らは経済的な剥奪を受けていると言えるでしょう。そうした膨大な人々を分泌しているのは、活力にあふれ、愛に満ち、富を不断に生産する健全なる市民社会なのです。我々がライプとして、豊かに生き生きと踊ることによって、そうした膨大なケルパーたちが生み出されているというわけです。

ケルパーは健康なる身体のうちから生まれ、そのうちに住み着き、それを内側から脅かしているかのようです。身体は、自分のうちに潜むそのケルパーとしてのありかたを外部に追い払い、それを自分とは縁もゆかりもないもの、つまり死体として排除します。そうすることで身体は、自らの生を確信し、いきいきと活動を続けていると言うこともできるでしょう。そうしたケルパーたちの、不動で、長すぎる時間の持続、それが生き生きとしたダンスを期待する観客たちの眼前に突きつけられているように感じたのでした。

(Leib-K&ouml;rper)]]>
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   <title>オーダーメイドなメディアの行方- physical integrationから考える</title>
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   <published>2007-07-22T14:21:07Z</published>
   <updated>2007-07-23T02:01:57Z</updated>
   
   <summary>今月頭に開催された『Physical integration〜身体とメディアの融...</summary>
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      <![CDATA[今月頭に開催された『<a href="http://kitachu.jp/pi/" target="_blank">Physical integration〜身体とメディアの融合〜</a>』は、これからの福岡のパフォーマンス文化にとって興味深い問題を考えさせるイベントだったと思います。このパフォーマーとメディア・アーティストのためのワークショップ（WS）には、Dance and Media Japan、韓国のデザイン大学sadiなどから講師が呼ばれ、福岡で活動するパフォーマー、それに福岡と韓国のメディアデザイン系の学生らが参加。5つの班に分かれ二日間のWSの後、その成果を約5分の作品として発表しました。]]>
      <![CDATA[今回のWSを企画した北村さん（映像パフォーマンスユニット「北中」・劇団「飛ぶ劇場」制作）に少しお話を伺ったところ、

「パフォーマンスの際の照明、音響、映像等のメディアをパフォーマーの身体の動きに応じてインタラクティヴ［双方向的］に反応するようにしてみたら、面白い表現が生まれるのではないか、と。そんなプログラムを開発するには、パフォーマーとプログラマーの共同作業が不可欠。でも実際には、それぞれの分野の才能はあまり交流していないらしい。そこで交流する機会としてＷＳを開催し、それが今後の展開に繋がれば･･･」

とのこと。アフタートークでも、コミュニケーションということを強調されていました。（<a href="http://blog.goo.ne.jp/kojikozy777/e/f364f92682bba3ae5ec11e9f1bb967ba" target="_blank">北村さんご本人のブログ（ここをクリック）</a>でも企画の経緯や総括が語られています。）

このような試みは福岡では初なのだそうです。近年福岡ではダンスや演劇etcパフォーマンス文化が盛り上がりを見せています。一方で、音響や映像等メディアのプログラムを構築する技術が芸工のような大学で培われています。福岡のパフォーマンス文化の更なる可能性を拓くためには、双方の交流が不可欠なのでしょう。たまに福岡でダンス関係のパフォーマンスを観てはいろいろ疑問を感じている者として、北村さんのお話には頷ける点がが多くありました。

もっともＷＳ参加者による最後のパフォーマンスは、（ＷＳでの各班それぞれの試行錯誤を知らない者が）舞台作品として観るには、正直かなり厳しかった（学生主体の作品だと割り引いたとしても）･･･と思います。講師の方々によるデモにはちょっと可能性を感じたのですが…。でもだからといって、これだけをもってＷＳ自体の成果を否定するのは早計に過ぎるでしょう。

むしろこの試みの成果は、これからの福岡での展開の中で次第に明らかになるものと思われます。例えばこのＷＳを通じて、「身体の一本で舞台を成立させなければならない！」というある種の強迫観念から解放され、より柔軟にメディアを積極的に活用して「身体表現を取り入れた舞台作品」を作る方向へ発想の転換があったり･･･等々。またはそういう仕方ではないにせよ、自分の身体に対応するメディアをオーダーメイド的に構想することで、新たな可能性へと接続されるパフォーマーが登場してくるかもしれません。

さて、このＷＳ（の方向性）から生み出されるのは、あるパフォーマーとメディアアーティスト（プログラマー）によって、ともすると一夜限りのものになりかねない舞台のために設えられる特別なメディアです。その意味で、ここでの「インタラクティヴな」メディアは、あくまで舞台作品という「目的」に奉仕するものとして構想されているといえるでしょう。では、この極めて専門的・特注的なメディアは、伝統的・西欧的なパフォーマンス文化（圧倒的な卓越性を公衆の前で示す）とは幾分ニュアンスが異なると思しき「福岡パフォーマンス文化」において、どのような展開の可能性を持つのでしょうか。

この点、<a href="http://dlmblog.jpn.org/2007/07/02/post_45.php" target="_blank">先月ドネルモ・ミーティングで取り上げられた『しくみデザイン』の話(こちらをクリック)</a>は面白い対比をなしています。そこでメディアと身体の関係は特別な目的に奉仕するあり方にはありません。関わり合いそれ自体を目的とするような、つまり「単なる遊び」として成り立つような関係こそ「インタラクティヴ」とされるからです。そのため、『しくみデザイン』のインタラクティヴ・デザインは、誰でも気軽に扱えるメディアとして構想されています。

恐らく今後、この二つのインタラクティヴなメディアは、それぞれの仕方で、より面白い舞台作品を目指す活動に関わってくることになるでしょう。例えばあなたがこれらのメディアを用いてパフォーマンスするとしましょう。さて、どちらのメディアが、より面白いものになりそうですか？(dudamel)]]>
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   <title>いっしょにあそぼう！―『ごろごろ　にゃーん』の読みかた</title>
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   <published>2007-07-10T14:46:37Z</published>
   <updated>2007-07-11T07:21:00Z</updated>
   
   <summary>ごろごろにゃーんこの絵本に出会ったのはある朝のニュース番組でした。400冊もの絵...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/6/0/60d7ffb6.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/6/0/60d7ffb6-s.jpg" width="159" height="114" border="0" alt="ごろごろにゃーん" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=4834009661%26tag=Lvdrfree-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/4834009661%253FSubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2" target="_blank">ごろごろにゃーん</a><br clear="all" />この絵本に出会ったのはある朝のニュース番組でした。400冊もの絵本を世に送りだしたという、“絵本の王様”長 新太さんの特集の中で、この絵本が特に紹介されていたのを偶然見たのです。長さんを知ったのはそれが初めてでしたが、私のように名前は知らなくても、絵を見ると「ああ、見たことある！」という人はたくさんいると思います。その番組の中で、「長さんの絵本は独特で奇想天外、予測不可能、独特のユーモア、脈絡の無い展開…」と紹介されていました。その代表格ともいえる絵本が、今回取り上げる『<a href="http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=24" target="_blank">ごろごろ にゃーん</a>』です。]]>
      中身はというと、ほとんど水色と黒、たまに黄色のインクを使い、先のとがったペンでひたすらがしがしと引っかいて描いた絵が、強烈に目に飛び込んできます。話を簡単に説明すると、「にゃーんとなくねこが、ごろごろとなくひこうきにのって旅をする」というものです。そしてインパクトのある絵以上に驚いてしまうのが、その絵本の文章がひたすら、「ごろごろ　にゃーん　ごろごろ　にゃーん　と、ひこうきは　とんでいきます」“だけ”の繰り返しであることです。海の上やビルの上、ときには鯨やオオカミに襲われそうになったり、宇宙船に出会ったりと、様々な旅の場面を描いているのに、文章はずっと「ごろごろ　にゃーん」。さいごは「ただいまー。」と元の場所に帰ってきます。

この絵本を読んだ“大人”は、眉をひそめるかもしれません。時には「ひとつも意味が分からない」と親からの苦情の手紙すらくることもあったそうです。番組の司会者たちも「なにこれ？」と首を傾げていました。私も「変な絵本！」と、例に漏れず思ってしまいました。けれど、保育園でその絵本が子どもたちの前で読まれている場面が写されたとき、司会者も私もびっくりしてしまいました。子どもたちは絵本がめくられるたび、とても楽しそうにけらけらと笑い、いっしょになって「ごろごろにゃーん、ごろごろにゃーん」と声を揃えていたのです。

この絵本を読み、首をかしげ、そして憤ってしまう人を“大人”、けらけら笑い楽しむ人を“子ども”と表現するならば、私を含め“大人”たちにとって、「絵本」は何か教育の「ためになる」モノというイメージなのでしょう。 そのため“大人”は絵本を開くとき「どんないい話かな？」と期待してしまう。ところがこの『ごろごろ にゃーん』は、ひたすら同じフレーズが続き、絵も特に「教訓めいた」要素はないように見えます。最後のオチは「ただいまー」です。“大人”は見事に期待を裏切られ、結局なにが言いたかったの？と不満を感じてしまいます。

けれど、この絵本を楽しむ“子ども”の姿を見て、この絵本はそういうものじゃないのでは？と感じました。なにかを伝えたいのではなく、ただ単純に、「さあ、一緒に遊ぼう！」と誘いかけているだけなのではないか？と。

 “子ども”たちは絵本のひこうきとねこといっしょに、「ごろごろ　にゃーん」となきます。繰り返しのフレーズはリズムが良くて、不思議な呪文のようです。それを唱えると、長さんのユーモアたっぷりの迫力満点な絵が、おもちゃ箱のように次々と飛び出してくるのです。次はどんな場面が待っているのだろう？とわくわくどきどきしながら、いろんな不思議な場所を旅して、そして最後に「ただいまー。」と元の世界に帰ってきます。“子ども”たちもただ単純に、絵本の中で遊び、楽しんでいるのです。

“大人”はなぜか、物事につい意味を求めがちです。「作者の意図しているものは何か？」と。例えば美術館では、作品そのものよりもキャプションカードをまじまじと見つめ、なるほど、と満足している人が多いように思います。美術品に限らずですが、これはこういう意図があって…などという道しるべ無しに1対1で物事に向き合うことが不安で、それを見てもなにもわからなかった、というのが怖いのかもしれません。

『ごろごろ　にゃーん』を読む子どもたちの楽しそうな様子を、私は本当にうらやましく感じてしまいます。でもきっと“子ども”になるには、「難しく、意味を探ろうと身構えるのではなく、ただ単純に楽しめばいい」だけなのでしょう。ただ「単純に楽しむ＝“子ども”になる」ということが難しい。皮肉なものです。
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   <title>見ることと見られること</title>
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   <published>2007-07-04T09:42:12Z</published>
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   <summary>京都芸術センターで開催されているincubation07展では、渡辺豪と片岡健二...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/e/c/ece58230.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/e/c/ece58230-s.jpg" width="159" height="97" border="0" alt="incubition07" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://www.kac.or.jp/exhibition/incubation07.html" target="_blank">京都芸術センターで開催されているincubation07展</a>では、渡辺豪と片岡健二の作品がそれぞれ南北のギャラリーに展示されている。どちらも顔を正面から捉えたポートレート作品ではあるが、渡辺の作品(画像：右)は冷たい印象を与え、片岡の作品（画像：左）は暖かな印象を与える。しかし、そのように異なった印象を与えるこれら二つの作品においてもっとも違っているのは、眼差しとの関わり方においてである。結論から先に言えば、渡辺の作品においては、作品に描かれた人物によって私たちが眼差され、片岡の作品においては私たちが描かれた人物を眼差しているのだ。こうした違いは、両作品に描かれた「顔」を私たちがどのように体験しているのか、その体験の仕方の違いだと言っても良いだろう。（画像は<a href="http://www.muzz.tv/muzzprogramspace/incubation07/index.html" target="_blank">こちらのサイト</a>から）]]>
      北ギャラリーに展示されている渡辺の作品からは、先に書いたように冷たい印象を受ける。脱色したかのような白色の眉毛、半透明の灰色や淡い青色で描かれた頭髪、青白い肌。その肌を注視したところで、皺を発見することは出来ない。いや、実際には、微細な皺のようなものは描かれてはいるのだが、それは僕たちが他人の顔に見出すような皺とは大きくことなっている。ふつう僕たちが他人の顔に発見する皺は、時間の流れを想起させて、人の人生を類推させる。あるいは、皺は「人間らしさ」を感じさせるものと言ってもよいだろう。しかし、渡辺の作品に描かれた皺のようなものは、「人間らしさ」ではなく、人工性を強くを感じさせるものだ。

人工性。渡辺の作品を形容するのにおそらく最もふさわしい言葉が、この人工性という言葉ではないだろうか。とはいえ、人工性を感じさせるからといって、僕たちが、渡辺の作品に描かれている人物をまるで物を見つめるかのように、見つめることが出来るわけではない。というのも、先に書いたように、渡辺の作品からは強い眼差しを感じ、そうした強い眼差しによって、僕たちが一方的に眼差すことは阻まれるからである。渡辺の作品に描かれた顔は、先に書いたように、脱色されたり半透明にされたりして、実在性を奪われた部分によって構成されているが、しかし、僕たちを眼差すその瞳だけが例外である。陰影をつけられ、微細に渡って描かれ、他の部分に比べると色彩に富んだ瞳。その瞳はまるで僕たちを監視するという目的のために生まれた機械のように、僕たちを眼差し続ける。

一方で、南ギャラリーに展示された片岡の作品からは、渡辺の作品に感じられたような、刺すような眼差しを感じることはない。そもそも片岡の作品においては、描かれた人物がこちら側に視線を向けることすらなく、見つめられる対象に留まっている。さらに、暖かな色彩と柔らかな筆触によって作られるその穏やかな表情からは、描かれた人物が見つめられることを進んで引き受けているかのような印象すら受ける。この片岡の作品に描かれている人物は片岡の彼女（現在は妻）であるのだが、たとえその事実を知らなくとも、恋仲にある異性に抱くような親愛の感覚が片岡の作品からは感じ取ることが出来るだろう。柔らかく、親愛に満ちた眼差し。片岡の作品はそうした眼差しを向けることを要請する。そうして僕たちの眼差しは作品を描いていたときの片岡の眼差しと重なりあう。僕たちは、片岡が彼女を描く際に向けた眼差しと同じ眼差しを彼女に向けることとなる。

渡辺の作品と片岡の作品は、このような対比をなしている。見る作品と見られる作品。眼差しをめぐって対立する両者の作品を、そして、そうした対比によって構成されたincubation07展を魅力的に思えるのは、そうした対比によって、僕たちの他者との関係の取り方がアクチュアリティーを持ったものとして再現されているからであろう。誰かを見る、誰かから見られる、誰かを見ることを阻まれる、誰かの視線を受け入れる・・・。incubation07展では、僕たちがふだん無意識的に行っているこのような「眼差しのゲーム」とも言うべきものが表されているように思えるのである。（くわた）
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   <title>しくみデザインのしくみ</title>
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   <published>2007-07-02T05:42:41Z</published>
   <updated>2007-07-02T05:46:10Z</updated>
   
   <summary>先日（６/28）のドネルモ・ミーティングでは、独創的なデザイン理念からビジネス展...</summary>
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      <![CDATA[先日（６/28）のドネルモ・ミーティングでは、独創的なデザイン理念からビジネス展開をされている、「<a href="http://www.shikumi.co.jp/" target="_blank">汲ｵくみデザイン</a>」のスタッフの方々をお迎えして、活動理念や活動内容などについて、いろいろとお話を伺いました。そのとき話題の中心になっていた「インタラクティブinteractive（相互作用）」という考え方に着目しつつ、ミーティングの模様を振り返ってみることにします。]]>
      <![CDATA[ミーティングの前半では、「神楽（かぐら）」と呼ばれるシステム（<a href="http://www.shikumi.co.jp/3_works/3a.html" target="_blank">こちらをクリック</a>）が紹介されました。それは、画面の前に設置されたカメラに動くもの（主に人）が捉えられると、動く姿が画面上に投影されると同時に、その動きに対応した音が演奏される、という仕組みでした。仮にカメラの前で人がどんなに滅茶苦茶に動いたとしても、神楽は決して不協和音を奏でることなく、誰にでも即興で美しい音楽を奏でてくれます。さながら夢の楽器のようでした。

基本的に、あらゆる楽器はインタラクティブな仕組みであると言えます。というのは、楽器だけがそこに在っても何も起きないからです。例えば、ピアノ自らが音楽を演奏することはまずありえません。ピアノが音楽を奏でるためには、あくまでも人の作用が必要とされます。それゆえ、楽器と人はインタラクティブな関係を結んでいることになるのです。

そして「神楽」の発想の起源は、そうした楽器にあったようです。普通、未経験者が既存の楽器で美しい音楽を奏でられるようになろうと思ったら、とにかく練習に練習を重ねる必要があります。弾けるようになるまでに、なかなか苦労しそうです。できることなら苦労などしたくありません。でも楽器を弾きたい、そんな思いから「神楽」は考案されたようなのです（・・・「神楽」のプログラムを組むときに、並大抵でない苦労をされているとお察ししますが）。「神楽」の前でダンスをすると、ダンスに合わせて音楽が流れているのか、音楽に合わせてダンスを踊っているのか、本当にわけがわからなくなります。わかりませんが、楽しいのです。

「神楽」には、アートとしての、ビジネスとしての、様々な可能性が見出されていました。しかしながら、しくみデザインの方々がずっと強調されていたのは、相互作用によって、ただ、「皆に楽しんで貰いたい」という点だったと記憶しています。

さて、ミーティングの後半では、東京に出張中だったしくみデザイン代表の中村俊介さんにテレビ電話で質問をする形で、「インタラクティブ」についての意見が交わされました。インタラクティブという観点で、現在、最も成功していると思われる分野は家庭用ゲームやアーケードゲームです。特に最近では、家庭でも任天堂のＷiiリモコンやＤＳタッチペン、あるいはコナミのＤＤＲ専用コントローラーなどに見られるように、画面と人の動きがかなり密接に連動している場合が増えており、一見すると、それらは「神楽」と人の相互作用にとても良く似ています。ゲームも「神楽」も、仕組みと人のインタラクティブな関係によって、ある種の楽しさを創出するという点では、確かに相違ないでしょう。ですが、中村さんによれば、その「楽しさ」の方向性がそもそも違っているようなのです。

ゲームが画面に映し出すのは仮想世界であり、プレイヤーは、仮想世界のキャラクターをプレイする、つまり演じることによって疑似体験をすることになります。その間、「現実世界の私」はこの現実世界から消失しています。

一方、「神楽」が画面に映し出すのは現実世界です。「現実世界の私」がリアルタイムで画面に映っているだけなのです。したがって、そこで体験されることは擬似的ではなく、どこまでも現実的です。それどころか、突然、画面に自らと自らの居場所が露見されることによって、「現実世界の私」は現実世界における自らの居場所に改めて気付かされます（通常、リアルタイムの自分を自分で見る機会など、そうそうあるものではありません。テレビの生放送は難しいでしょうから、せいぜい店頭の防犯カメラ映像くらいでしょうか。けれど、それは楽しさとは対極にある気がします。また、鏡に映った自分は、左右が反転しているのでどこか違いますし）。

というわけで、ゲームは、「仕組みと人」「人と人」のインタラクティブな関係性によって、人々を限りなく仮想世界へと誘いますが、「神楽」は、「仕組みと人」「人と人」「人と場所」のインタラクティブな関係性によって、人々を限りなく現実世界へと繋ぎ止めるのです。ゲームはひきこもりの、神楽はnotひきこもりの楽しさを、それぞれ目指しているということなのでしょうか。（The Fourth）
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   <title>落ちるに見入る</title>
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   <published>2007-06-27T16:53:19Z</published>
   <updated>2007-06-28T05:08:53Z</updated>
   
   <summary> 福岡市美術館にて展示中のロベール・カエン展にいってきた。ロベール・カエン(Ro...</summary>
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      <![CDATA[<img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/f/f/ff9c862d.jpg" width="126" height="180" border="0" alt="chair" hspace="5" class="pict" align="right" /><a href="http://www.ifj-kyushu.org/jp/event/2007/html/robert.html" target="_blank">
福岡市美術館にて展示中のロベール・カエン展</a>にいってきた。ロベール・カエン(Robert Cahen)は、フランスにおけるビデオ・アートの草分け的 存在であり、今日最も重要視されているビジュアル・アーティストのひとりである。現在展示中の８作品のうち、とりわけ『Tombe（落下／墓）』（1997年）というタイトルの付いた作品が印象的だった（右画像）。これは、ブルーを背景とした縦長のスクリーンに、人形、シャツ、椅子、皿など様々なモノの落下してゆく様が、ひとつひとつ淡々と映し出されてゆくビデオ・インスタレーション作品である。時折気泡らしきものが見られるため、おそらくこれは水槽の中に様々なモノを落とす様子を撮影したものだと思われる。]]>
      この作品をしばらく眺めていると、モノたちはそれぞれ固有の落下時間、固有の運動様式（リズム）からなる多様さを持ちあわせているということに、わたしたちは改めて気付かされる。その様子はまるでモノたちが「落下」という言葉ひとつでは物足りないと主張しているかのようである。

人形は髪を逆立て、ライトアップされた横顔の不気味な陰影を見せながら画面下へと消えてゆく。シャツは、はじめそれがシャツであると分からないくらい歪みきった形で出現するが、しばらくして、襟やボタンの存在からかろうじてシャツであると認識される。そして苛立たしいほどゆっくり時間をかけて降りてゆく。椅子は速い。息つく間もなく急降下する。皿は画面の左右をいっぱいに使って、ひらひらとUFOのように去ってゆく。

そのようなモノたち固有の材質や形状に起因して生じる各々の落下への抗い様は、まさしく、人形、シャツ、椅子、皿それぞれの演者が縦長の舞台に見せるダンスである。そしてそれを目撃してしまった者は、そこかしこに置かれた今は動かないあらゆるモノたちも、きっとあのような魅力的な運動を秘めているに違いない…と思いを巡らせずにはいられないだろう。ついには実際我が家にあるモノを湯船にことごとく沈めて、その様子をじっくり鑑賞してみたい衝動に駆られるかもしれない。

早速家に帰ってお風呂に入る前に、ちょっと彼の出自を探ってみた。彼はパリ国立高等音楽院卒であり、ミュージック・コンクレート（註１）の創始者ピエール・シェフェールに師事していたという。正直よくわからないシェフェールの「音楽」も、実はカエンの『Tombe』のような仕方で、そこかしこで聞える音に秘められた可能性を探ろうとしていたのかも･･･。湯船にお湯の落ちる音を聞きながら、そんなことも考えた。（ラムレーズン）

註１：ミュージック・コンクレート→サンプリングされた非楽音（ピッチの安定しない音。人や動物の声、自然界の音、騒音等々）にエフェクトをかけ変質させたものを、様々に組み合わせて作曲する電子音楽の一種。
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   <title>fauve de la cage</title>
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   <published>2007-06-26T12:12:17Z</published>
   <updated>2007-06-26T18:15:34Z</updated>
   
   <summary>6月9日に行われた「踊りに行くぜvol.8」福岡選考会には、6組の参加があった。...</summary>
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      <![CDATA[6月9日に行われた<a href="http://odorif.jugem.jp/" target="_blank">「踊りに行くぜvol.8」福岡選考会</a>には、6組の参加があった。各組各様のパフォーマンスを期待したが、予想を超えるものを見ることができた。特に目を引いたのが、4組目の「CHAOS J.P.」（KARAS）である。ある意味では、様式として固まりつつあるコンテンポラリー・ダンスに一石を投じたといえるだろう。]]>
      <![CDATA[パフォーマンス自体は開始の合図からしばらくなにも起きず、どうしたのかと思った矢先、突然ぴったりした黒衣に身を包んだ男が現れる。外見はさながら忍者であり、コンテンポラリー・ダンスというよりは、何かのヒーロー・ショーに似合いそうな出で立ちだった。その異質さがかえって、ここがダンス選考会として強力に外界から囲われていることを意識させられたように思う。

その男が、両端に房が付いた鮮やかな緑の棒を、アクション・シーンばりにひたすらグルグル回す。芸術的な自己表現や何らかのテーマを基にした場面構成などとは無縁に、観衆の理解とも無縁に、ただ棒の回転だけが目的であるかのようだ。そして時折怒るかのように足を踏み鳴らし、威嚇する。まるでここにいることが何かの間違いで、その異質感に自棄（やけ）になったようでもあった。特別な檻の中に入れられキャプション付きで見られることに拒絶感を露にするその様は、「あたかも野獣〈fauve〉のようだ」。

この足踏みは終わりに近づくにつれますます激しく、舞台上をノッシノッシと歩き回り、また回転に集中する演者の息も荒く、観衆はいよいよ置き去りである。音楽もノイズ・ミュージックが大音量で鳴り、緊張感だけが高まる。一体この演者は何をしたいのか、ただ棒を様々に回したかっただけなのか、ではなぜこのような場で観衆に脇目も振らず回し続けるのか、これはそもそもパフォーマンスなのか、そうした混乱した状態に陥らされたように思われる。そこでは、このように人が集まり、わざわざ誰かの演技をかしこまって見るのは何のためかという疑問が改めて浮き彫りにされたようだった。

そのうち突然音楽が止んだ。そこで演者は中央に立ったかと思うと、おもむろにズボンをおろしてサッサと退場したのである。これには誰も狐につままれたようであった。そしてこの後、一向に舞台に戻ってくる気配がない。通常なら審査員のコメントを聞くはずなのだが、肝心の演者がいなくてはコメントしようもない。係りが呼びに行ったところ、「本人の要望でコメントはなし」ということだった。皆が呆気に取られたようであった。

コンテンポラリー・ダンスとして設定された会場で、選考されるべき者として出演しながら、その場で期待されるありとあらゆるパフォーマンスを裏切って、選考会という場自体の自明性に疑問を呈した（ように見える）KARAS氏の「パフォーマンス」は、当り前のようにダンスを見に行った者には衝撃的かつ刺激的なものであった。あえて大道芸的な装束をして棒を振り回し続けることで、恐らくKARAS氏は、かつてのアヴァンギャルドのように、特権的な空間として囲われつつあるアートの場に異議申し立てをしたに違いない。その批判の徹底ぶりには恐れ入るばかりである。しかしまた、このような批判的なパフォーマンスさえ受け入れ、コメント拒否にも穏やかに対応した「踊りに行くぜ」福岡選考会の懐の深さにも拍手を送りたい。(つかさ)

追：<a href="http://d-codex.jugem.jp/?eid=403" target="_blank">選考結果が先週発表された</a>。選考の結果、マニシアさんとヒロシさんの『ヒロシとワタシ』、イフクキョウコさんの『浮かんで遊んで流れて』が10月に福岡で上演される予定（10/7・イムズホール）]]>
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   <title>来るべき未来とその残余</title>
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   <published>2007-06-24T02:21:19Z</published>
   <updated>2007-06-27T17:15:08Z</updated>
   
   <summary>時をかける少女 通常版前回のドネルモ・ミーティング（6／７）では昨年公開され、話...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=B000MEXAOM%26tag=Lvdrfree-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/B000MEXAOM%253FSubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2" target="_blank"><img border="0" src="http://ec1.images-amazon.com/images/I/11RQECldCeL.jpg" align="left" style="margin-right:5px;" /></a><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=B000MEXAOM%26tag=Lvdrfree-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/B000MEXAOM%253FSubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2" target="_blank">時をかける少女 通常版</a><br clear="all" />前回のドネルモ・ミーティング（6／７）では昨年公開され、話題となった『時をかける少女』（細田守監督、２００６）についてプレゼンが行われました。この作品は主人公・真琴がタイムリープ（過去に戻ること）を通じ、今現在起きている些細な日常のかけがえのなさとそこに潜む無数の後悔に気づく過程を丁寧に描いています。ここではその時話し合われたことを報告します。プレゼンの内容は下記に要旨をつけていますので、よければそちらもご覧ください。]]>
      初めにタイムリープを繰り返す中で真琴が達した時間を操作してはならないという「倫理」が話されました。物語の後半、真琴は「千昭のことが好き」と「千昭を未来に戻す」というどう考えても両立不可能な想いを抱いています。こうしたジレンマの中、結果として彼女は自分の想いを伝えませんでした。それは時間を操作し、自分にとって調和した未来にしてはならないという「倫理」を優先させたからなのです。
 
このような決断は真琴にとって挫折以外のなにものでもありません。しかし、それでもなお彼女はポジティブな仕方で未来を志向しています。そもそも、タイムリープとは自分にとって都合のよい未来を形成するためのエゴイスティックな行為といえるでしょう。だからこそ、それを断念した真琴には今という一瞬一瞬の時間は取り返しがつかないものとなり、あらゆる行為に後悔がより顕著なかたちで付き纏うことになるはずです。
 
ただ、そうしたありえたかもしれない可能性や自らの選択に対する後悔に絶えず配慮するという姿勢こそが真琴の未来への態度を変えた要因であるとプレゼン担当者は言います。（実際に最後のシーンの真琴は光り輝いています。）こうした未来に対する態度は両立不可能な想いを抱えながらも、何かを選択し、さらに他の可能性を引き受けることを意味するからです。『時をかける少女』では自分にとって「調和的な未来」ではなく、様々な可能性を引き受けた「見通せない未来」をかけがえのないものとして生きるという真琴の未来に対する「倫理」が描かれているといえるでしょう。
 
そんなことを話す中で、タイムリープは人間関係の修復作業と同じであるという意見が出されました。というのも、不都合な事実をなしにするタイムリープと関係が壊れてしまった相手に謝り、許してもらう行為は共にそこに至った経緯をなしにするという点で似ているからです。また、真琴はタイムリープを繰り返す中で何度となく他者を不幸にしています（いじめを受けたクラスの男子、ケイスケとその彼女の事故etc。）にもかかわらず、こうした事実に対して無関心であるという批判もありました。
 
実際、現実の人間関係は謝ったからといって必ずしも元に戻れるとは限らないし、ある日突然、忘れていた、無関心だった過去が自己を切迫した状況に追い込むこともあります。そうしたことを考慮に入れると『時をかける少女』は「見通せない未来」への配慮を通じてもなお残存するさらなるいくつもの可能性や自らの行動の責任を我々に突きつけてくる作品といえるのではないでしょうか。みなさんもぜひ御覧になってください。（middle three）

[プレゼン要旨]
プレゼンは主人公の真琴を「現在」、友人の千昭を「未来」のメタファーとして考えてみよう、というものでした。まず主人公真琴は、時間を操作してはならないとの思いから千昭を未来へ戻そうとする気持ちと、「自分は千昭のことが好きだ」という気持ちのジレンマを抱えながらも、最終的には千秋と別れる選択を取ることが指摘されました。つまり千昭（未来）を真琴（現在）の思い通りにしてはならないことに、真琴（現在）が気付くというわけです。

それでも最後、「未来で待っている」という千昭に対し真琴は「すぐいく、走っていく」と約束します。でも真琴（現在）は千昭（未来）を断念したはずですから、ここで千昭の待っている「未来」が問題となります。つまりここでの「未来」とは、現在にとって都合のよい「夢見た未来」ではもはやなく、全く別物になっているはずなのです。

「夢見た未来」が目的となっている場合、現在はその目的を達成するための手段になっています。でも未来を目的と考えなくなったとき、現在は手段としてのあり方から解放される。確固たる目的を失った現在には、常に別にありえた可能性が「ひょっとしたらこうだったかも･･･」という後悔に似た配慮が伴うことになるでしょう。そんな「見通せない未来」に配慮する感受性のうちに、自分以外の他者に配慮する感受性が、はじめて生じることになるのではないか。そしてそんな感受性を通じてしか見えない、かけがえのない現在の風景を細田監督の演出が強調しているように思います。
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   <title>ショスタコーヴィチ、その４番と５番のあいだで</title>
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   <published>2007-06-19T22:35:15Z</published>
   <updated>2007-06-19T22:39:48Z</updated>
   
   <summary>ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ショスタコーヴィチの交響曲に触れるとき、最初に耳...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=B000AU1NMY%26tag=Lvdrfree-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/B000AU1NMY%253FSubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2"><img border="0" src="http://ec1.images-amazon.com/images/I/11KA47QZX0L.jpg" align="left" style="margin-right:5px;" /></a><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=B000AU1NMY%26tag=Lvdrfree-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/B000AU1NMY%253FSubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2">ショスタコーヴィチ:交響曲第4番</a><br clear="all" />ショスタコーヴィチの交響曲に触れるとき、最初に耳にするのは「革 命」という表題のつくことが多い交響曲第５番ではないでしょうか。こ の５番は、1917年のロシア革命を描いたマッチョな革命賛歌とし て深夜に聴くと、私などは血湧き肉躍る興奮を抑えることができませ ん。しかしこの５番の陰で泣いていた交響曲がありました。それは交響曲第４番です。]]>
      交響曲５番は、1936年ソ連共産党中央委員会機関紙「プラウ ダ」に批判され、シベリア送りになりそうになったショスタコーヴィチが、自己の生物的生存を賭けて、スターリンに取り入るべく、1937年に書き上げたものだとされています。そしてそれに先立ち、ショスタコーヴィチは、初演が予定されていた４番をお蔵入りにしたのです。

ソヴィエト連邦の「ソヴィエト」とは、ロシア語で「会議」を意味しています。ソヴィエト連邦とは、「会議連邦」なわけです。なぜ会議なのかといえば、それが革命の原理を意味しているからなのです。職場で上の指示に従って労働する人々、地主の支配のもとで収奪される農民、政府の誤った政策で国益に反した戦争で命を落とさねばならぬ兵士、そうした不合理な支配に抑圧される人々が、その場その場で集まって話し合う。そのときに初めて、支配を断ち切る新しい力が生まれる、これが一切の革命の原動力であり、その無数の会議の連合体がソヴィエト連邦だ、というのが「会議革命」の理念なのです。

交響曲第４番のとりわけ第一楽章を解像度の高い再生装置で聴くと、無数の「ソヴィエト」がまるで生き物のように自然発生的に誕生し、それが巨大なうねりとなってまるで蟻塚のように瞬間的にそびえ立ったり、それぞれに独立した微少なソヴィエトが連合し、離散し、反発し、糾合されるさまが手に取るように聞き取れます。そこには明確で分かりやすい旋律のようなものはなく、瞬間的に状況が切り替わったり変動したりするプロセスが描かれているのみです。複数の中心が決して一つの旋律に吸収されることなく、独自の論理でそれぞれ動き、その多数の重なりが一つの「状況」、ピークを瞬間的にかたちづくります。おそらくショスタコーヴィチにとって、これが真のソヴィエト革命のイメージだったのでしょう。

これに対して交響曲第５番で耳につくのは、何かを圧倒する巨大な旋律の勇ましさです。独立したソヴィエトは消失し、そこにあるのは敵対勢力を凌駕する単一なパワーのうねりです。そしてこれこそが、自由な「会議」を弾圧し、それを一つの専制支配へと糾合したスターリンのお気に入りとなりました。二つの交響曲のあいだには、互いに相容れない二つの革命の理念が対応しています。革命とは、敵と戦う単一の威力なのか、それとも自分たちの抱える問題についてその場その場で話し合う無数の場の連合なのか。交響曲第４番の初演は、スターリンが死んだ後、作曲から26年後の1962年まで待たねばなりませんでした。(anticommunist)
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   <title>メーヴェという翼</title>
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   <published>2007-06-16T07:21:10Z</published>
   <updated>2007-07-04T16:58:36Z</updated>
   
   <summary>人は道具を発明し、洗練させて、使う。道具とは人にとって、あくまで何かの目的を達成...</summary>
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      <![CDATA[<img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/3/a/3a4c4688.jpg" width="94" height="140" border="0" alt="opensky" hspace="5" class="pict" align="left" />人は道具を発明し、洗練させて、使う。道具とは人にとって、あくまで何かの目的を達成するための手段に過ぎず、いかなる道具であろうと人が「使う側」であり続け、道具は「使われる側」に過ぎない。普段僕たちが想定している人と道具との関係は、おおよそこのようなものでしょう。しかし、先日京都で開かれた<a href="http://www.petworks.co.jp/~hachiya/Hachiya_Kazuhiko/Information.html" target="_blank">八谷和彦さん</a>のトーク・イベントで提示された人と道具との関係は、このようなものではありませんでした。人と道具とが互いに交流しているかのような、相互に依存する関係が示されていたように思います。

八谷和彦さんといえば、九州芸術工科大学の卒業生なので、ご存知の方も多いでしょう。先に挙げたトーク・イベントは、八谷和彦さんが数年前より着手した「個人的に飛行装置を作ってみるプロジェクト」（以下、「飛行装置プロジェクト」）の<a href="http://www.uplink.co.jp/cgi-bin/shop.cgi?action=detail&cat_key=new&id=910" target="_blank">ドキュメンタリーDVD『Open Sky2.0』</a>の販売を記念して、彼の友人の美術作家やなぎみわさんを迎えて行われました。八谷さんの話が面白かっただけではなく、やなぎみわさんの「ツッコミ」も冴え（個人的に一番面白かったのは、宮崎駿監督への「ナウシカみたいな女の子なんていないよ！」というツッコミでした）、とても充実したトーク・イベントだったように思います。]]>
      このトーク・イベントの中で僕がもっとも興味を覚えたのは、八谷さんがされた自転車の話でした。それはおよそ次のようなものです。「むかしむかし、自転車が発明されていない頃、人はふたつのタイヤが一列に並んだ乗物に乗ることが出来るなんて思わなかった。しかし、自転車が発明されて、世間に広まるにつれて、ある程度練習さえすれば誰もが自転車に乗ることが出来ることが分かった。」この自転車の話は、新しく発明された道具によって、人間の潜在的な能力が引き出されたと伝えているように思います。あるいは、自転車が発明されなければ、タイヤが一列に並んだ乗物にバランスを取って乗る能力は発見されなかったでしょうから、自転車の発明が人間の新たな能力を生み出したと言っても良いのかもしれません。

もっとも、こうした話は、何も自転車に限った話ではなく、他の道具にも共通する話ではないでしょうか。例えば、タイプライターが発明されたことによって人はブラインドタッチするようになったわけですから、タイプライターの発明はブラインドタッチするという人の能力を引き出したということが出来るでしょう。あるいは、タイプライターよりもずっと分かりにくいけれど、携帯電話によって新たなコミュニケーション能力は作られたとも言えるのかもしれません。いずれにせよ、ある種の発明がこれまで使ってこなかったような人の能力を要求するというのは、決して珍しい話ではないように思います。

とはいえ、それでもなお、先に挙げた自転車の話に興味を覚え、そして八谷さんの「個人的に飛行装置プロジェクト」との関連で重要だと思うのは、八谷さんのプロジェクトが明瞭なかたちで道具が人に及ぼす影響を示しえているかのように思えるからです。言うなれば、そこでは冒頭に書いたような道具と人との交流とも言うべきものが示されているように思えるのです。

例えば、飛行機やヘリコプターといった飛行装置ではどうでしょうか。それらは、八谷さんが「飛行装置プロジェクト」で作ったメーヴェと、空を飛ぶという点においては共通しています。しかし、そこには先に書いたような意味での道具と人との交流は見られません。飛行機やヘリコプターは、人の力とは隔たった機械の力によって空を飛びます。それらのものには身体との連続性が感じられることはありません。一方で八谷さんの「飛行装置プロジェクト」におけるメーヴェと八谷さんの関係はより密接に結びついているように見えます。八谷さんが言うように、パラグライダーに似た操縦方法を必要とするという点においても、そして、その外見が有機的であり身体との親近性を感じさせるという点においても、八谷さんのメーヴェは身体とどこかで繋がっているように思えるのです。八谷さんのメーヴェはこのような意味で、冒頭に書いたような人と道具との交流を感じさせるものです。

さらに言えば、周囲の風向きなどの状況が整った時のみ長く飛行できる現状のメーヴェ（今後、エンジンが付けられ自動飛行できるようになるそうです）は、外的な世界とも交流していると言えるのかもしれません。風向きを読み、メーヴェに乗り、バランスを取る。そこでは、風の流れにあわせて羽ばたく鳥のように、メーヴェという翼によって世界と結びつきながら空に浮かんでいるかのように思えました。（ルチャ）
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   <title>アート・オープン・カフェ（第３期）「映し合う都市、福岡と東京」　のお知らせ</title>
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   <published>2007-05-31T23:18:09Z</published>
   <updated>2007-06-20T06:54:38Z</updated>
   
   <summary>アート・デザイン・クロッシング〈vol.1〉破片たちの思考 今年の秋に、アート･...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=487378865X%26tag=Lvdrfree-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/487378865X%253FSubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2" target="_blank"><img border="0" src="http://ec1.images-amazon.com/images/I/016FY3F9SFL.jpg" align="left" style="margin-right:5px;" /></a><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html%3FASIN=487378865X%26tag=Lvdrfree-22%26lcode=xm2%26cID=2025%26ccmID=165953%26location=/o/ASIN/487378865X%253FSubscriptionId=15JBHWP7TH9QYT1RMHG2" target="_blank">アート・デザイン・クロッシング〈vol.1〉破片たちの思考</a><br clear="all" />
今年の秋に、アート･オープン・カフェ（Art Open Cafe：AOCと略）が予定されています。
AOCとは、福岡市内の画廊やインテリアショップを会場に、アートやデザインの分野で活躍されている方をゲストに迎え、会場に集った方々とともに議論を深めることを目的に実施されている企画です。
２００４年から毎年開催されており、今回で第３期となります。（第１･２期の模様は、『アート×デザイン・クロッシング』として出版され、福岡や東京のアート専門書店で扱われる等、一定の関心を持って受け入れられました。[上画像はvol.1]）

今回のAOCは、福岡（イムズ）と東京（東京ミッドタウン内「芸術工学東京サイトG-PARN」）を会場に、共通のテーマに従ってそれぞれ４回、８名のゲストをお迎えする予定です（今期は九州大学の公開講座というかたちで開催されます）。ドネルモも企画段階から参加しています。

以下は、今回の企画の趣旨や現段階で決定しているゲストの方の出演日程etcです。
新しい情報が入り次第、順次お知らせいたします。]]>
      <![CDATA[企画趣旨
福岡という都市は日本の文化状況のなかでかなり特殊な位置を占めている。福岡ほどに多くの文化人、アーティストを輩出している都市圏はそれほど多くない。気がついてみると、あの人も、この人も、福岡の街の出身であったり、この街を経由した経歴を持っている。だがその豊穣なる才能の培養地は、その才能を開花させる役割を東京に譲り渡し、現在でもなお一つの文化的中心となりえないでいる。

産炭地の影と華麗なる消費都市、九州と東京を結ぶ中継点、中国や韓国の深い影、上昇志向と伝統的共同体、才能の培養と離脱、そうした様々な要素が交差する地点に福岡は位置する。交差都市・福岡のそうした潜在力に光を当て、その深い文化的背景を探り、個性的な地方都市に内在する文化的可能性を探るため、福岡の才能の受け皿となってきた東京の視点から福岡を捉え直してみたい。そしてまた、その視点を踏まえた上で、なお福岡と東京のあるべき関係のあり方を探ってみたい。

日時：2007年9月〜2008年1月　午後7時〜9時
場所：東京ミッドタウン、イムズ

開催予定

〈場所をめぐるドラマ〉
9.28（金）（東京）<a href="http://www.junyatashiro.com/" target="_blank">JUNYA TASHIROさん</a>（ファッションデザイナー、福岡在住）
 	「時代と場所、衣服をめぐって」

〈都市と制作現場〉
10.19（金）（福岡）<a href="http://www.cine.co.jp/miike/" target="_blank">熊谷博子 さん</a>（映画監督、三池炭坑の記録映画の監督）
	「都市像を描き出す技法-『三池　終わらない炭鉱の物語』を制作して」

〈エンタテイメントの戦略〉
10.25(木)（福岡）<a href="http://www.level5.co.jp/" target="_blank">日野晃博 さん</a>（ゲームクリエータ、レベルファイブ代表、福岡在住）
　　　　　　　　　　　　　「ゲームをめぐる、ゲームのような日常」
12.7（金）（東京）<a href="http://www.vi-shinkansen.co.jp/" target="_blank">いのうえひでのり さん</a>（劇団新感線主宰、福岡県出身）
 	「劇団新感線の戦略」

〈メディアを構成する技術〉
12.21（金）（福岡）<a href="http://www.petworks.co.jp/~hachiya/Hachiya_Kazuhiko/Information.html" target="_blank">八谷和彦 さん</a>（メディアアーティスト、芸工大出身）
 	「遊ぶ機械」
 1.10（木）（東京）<a href="http://www.studio-rikka.com/" target="_blank">吉浦康裕 さん</a>（アニメーション作家、芸工大出身）
	「アニメーションという関わり方｣

企画委員会・ファシリテータ：古賀徹（九州大学芸術工学研究院）、白川隆三（九州大学USI機構）、　　　　　　　　　　　　　　　　　　　佐々木喜美代（福岡市広報課）、山内泰（ドネルモ）
主催：九州大学公開講座
共催：福岡イムズ、ドネルモ]]>
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   <title>「はっきり言えない」をはっきり言う</title>
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   <published>2007-05-14T18:46:47Z</published>
   <updated>2007-05-15T20:02:34Z</updated>
   
   <summary>遅くなってしまいましたが、今月頭にあったチェルフィッチュ『三月の5日間』（5/2...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/7/1/7103389a.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/7/1/7103389a-s.jpg" width="160" height="226" border="0" alt="チェルフィッチュ" hspace="5" class="pict" align="left" /></a>遅くなってしまいましたが、今月頭にあった<a href="https://imsco285.rsjp.net/event/performance/05_02.html" target="_blank">チェルフィッチュ『三月の5日間』</a>（5/2：イムズホール）のレビューです。ひたすら感銘を受けました。演劇に詳しくない私が思うに、保坂和志の小説（『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0-%E4%BF%9D%E5%9D%82-%E5%92%8C%E5%BF%97/dp/4122036445" target="_blank">プレーンソング</a>』etc）、今放送中のアニメ『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%89%E3%81%8D%E2%98%86%E3%81%99%E3%81%9F-%EF%BC%91-%E9%99%90%E5%AE%9A%E7%89%88-%E7%BE%8E%E6%B0%B4%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%BF/dp/B000O78BKK" target="_blank">らき☆すた</a>』（特に第1話）、高野文子の漫画（『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%A3%92%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%BD%E3%82%93-%E9%AB%98%E9%87%8E-%E6%96%87%E5%AD%90/dp/4838706138/ref=pd_bbs_sr_1/503-4123149-9711121?ie=UTF8&s=books&qid=1179255518&sr=8-1" target="_blank">奥村さんのお茄子</a>』etc）、ユスターシュの映画『<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%9E%E3%81%A8%E5%A8%BC%E5%A9%A6-%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%87%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3/dp/B000067JV1/ref=sr_1_1/503-4123149-9711121?ie=UTF8&s=dvd&qid=1179255572&sr=1-1" target="_blank">ママと娼婦</a>』、福岡関係ではアマンダ・ヘンの『<a href="http://www.ffac.or.jp/magazine/02/amanda.html" target="_blank">おしゃべりしましょう</a>』etcでなされていたこと−一見無駄話に思える「日常会話」が、人の意思とは無関係に独自に繰り広げる運動やリズムを扱う試み−が、実にスマートに舞台化されていました。舞台上には、言葉が自分の思っていることを伝える手段としてはいまいち不適切であること、そんな不十分なメディアではあるが、しかしそれでもなお自分について語り、他人と関わろうとする僕たち私たち、そこで生じる他人との、そして自分自身との距離感etc、まったく、他人事とは思えないアクチュアリティがあったのです。
（<a href="http://precog-jp.net/2007/04/5dvd.html" target="_blank">左の画像はＤＶＤのパッケージ</a>）]]>
      チェルフィッチュ『三月の5日間』は、イラク攻撃の始まった3月20日から5日間を渋谷のラブホテルで過ごした男女に関する「話」が中心となる会話劇です。基本的に舞台上の役者は、「誰かのこと」について話します。たとえ自分のことであっても、「今から〜っていうのをやろうと思うんですけど」とその都度自分の役割を規定します。そのため、劇中の誰かのことであれ、自分の役のことであれ、基本的に他の誰かについて話すことになるのです。

そんな仕方で、「三月の5日間」についてぶらぶらだらだらと話す、という感じで舞台は進行しました。これだけ聞くと、全く面白くないように思われるかもしれません。でも面白かった。うけていた小ネタ、「ミフィーちゃん」のようなシンパシーを誘うキャラの面白さもさることながら、何よりも、かわるがわる登場しては語られる断片的な情報から、渋谷での状況がどんなだったのかを観客に推察させるテキスト、その構成力には、驚くばかりでした。だらだらとした俳優の言葉遣い、語り口、語る仕草も、あたかもアドリブのようなリズムを持ちながら、しかし厳密に演出されたものだそうです。

アフタートークで作・演出の岡田さんは、テープ起しのバイトの経験からチェルフィッチュのスタイルを思いついた、と語っていました。「話す」という行為から、「言いたいこと」を抽出する際に廃棄される膨大な話し言葉、その豊穣さに気付いたというのです。そこには、語るべき「物語」などもはやない、という冷めた意識があるのでしょうか。言葉で何かを語るのではなく、言葉を語るということそれ自体について、演劇というメディアで考えてみる、そういう姿勢を感じました。

そういえば岡田さんは「悲しい台詞を悲しい表情で語る」というのはちょっとおかしい、とも言っていました。同感です。そのためでしょう、チェルフィッチュにおける「無駄な語り」の豊穣な世界は、それを語る俳優の「無駄な動き」によってさらに強調されます。例えばだらだら長電話しているとき、そこら辺の紙とペンで、ぐちゃぐちゃした図を描いたりしてしまう。そのように、話している内容と身体の動きはまったく別物で、それはそれぞれの「やり方」に従っている。そんな身体独自の「やり方」を、語り口の説得力を強める手段として、岡田さんは意識的に用いたといいます。結果、俳優たちはぶらぶらと、会話内容とは無縁の動きをしながらだらだらと、言葉を生み出すのです。

そんな緻密なテキストと演出による舞台化を通じて、「はっきり言えないということ」が、明確な仕方で表現されることになりました。アフター･トークでの発言にもありましたが、「はっきりとは言えない」という感覚には共感を覚えます。言葉によって自分の言いたいことが相手に伝わる、そう簡単ではなくても、でも熱心に話せば、論理的に話せば、完璧な演技をすれば、相手に伝わる。そう信じることができれば、幸せかもしれません。が、私にはあまりそうは思えない。話せば話すほど、他人との距離は遠のき、自分自身との距離も遠のく気がする。やればやるほど、言葉というメディアが、話すというやり方が、コミュニケーションにおいて、自分のことを考える上で、極めて不器用なものであることに気付かざるを得ない。

でもそれでもなお、私たちは人に出会うと、なぜかあれこれ話し、伝わってるのかな？と思いながらも、なお何かしら話す。不十分な仕方でしか関わりあえない他人と、不十分なメディアによって、なぜか関わろうとする。そんな語り手の意志とは無関係に、膨大な話し言葉や無意味な動作は、独自のリズムでぐるぐると、目くるめく動き回っている。その様子を、チェルフィッチュは非常な精度で写しとり、舞台にしていたと思います。こういう演劇を見たかったのです。いやはや見事でした。（さんすくみ）
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   <title>鳥かごの中の世界 </title>
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   <published>2007-05-02T07:11:32Z</published>
   <updated>2007-05-02T07:18:56Z</updated>
   
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      <![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/f/b/fb387000.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/f/b/fb387000-s.jpg" width="160" height="120" border="0" alt="okumura  san" hspace="5" class="pict" align="right" /></a>
先週、PROJECTION北九州―福岡ビデオアート`０７というイベントで上映されている映像作家・奥村雄樹さんの新作『Black Bird』を見てきました（北九州、ギャラリーSOAP　４／２１−５／６）。他にももう一つの新作や台湾や北九州のシーンが追加された２００７年版『Loophole』も同時公開されているので興味のある方はぜひ足を運んでみて下さい。]]>
      奥村さんの作品の多くは、私たちがいつも見ている何気ない風景や気にも留めない事象に対し、特定のやり方（編集）を用いて別の局面を出現させるように思います。例えば『Loophole』ではピンポン球が飛び跳ねるカットと配水管や街中の円い窪みから出たり入ったりするカットで構成されています。それらを編集して繋ぎ合わせることでピンポン球があたかも自らの意思によって部屋の中や道端を移動し、円い窪みをワープする変わった生き物であるかのような独自の世界が現れてきます。 
 
また『Looking For The Wind』ではプラットホームで電車の到着を待つ人々の日常が記録されています。ただ、電車の到着を今や遅しと確認する行為が編集によって繰り返されることでものすごい数の人がせっかちに見え、電車が来るのを切望しているような滑稽な風景に様変わりしてしまいます。このように奥村さんの作品に接すると次第に異質な世界が日常の見慣れた風景の中に現出することをまざまざと思い知らされるのです。
 
今回の新作『Black Bird』は小倉上空を滑空する鳥（たぶん鳶）の映像で構成されています。おそらく小倉駅周辺によく行く人なら上空を滑空する鳥の光景は見慣れたものでしょう。ただ、そうした舞台や背景の説明は始めのワンカットだけに限られ、それ以降は真っ白な空を背景に、鳥がひたすら画面のフレーム枠内で窮屈そうに飛んでいる様子が写されます。つまり編集によって、あたかも鳥がフレームの枠内に閉じ込められているかのように見えるのです。

映像で鳥が飛んでいる場面を見るとき、フレームの枠外には当然ながら世界が広がっていて、例えばフレームを右から左へと横切る鳥は、たまたまカメラのフレームの枠内を通り過ぎたと考えるでしょう。映像ではなく実際に鳥が右から左に飛ぶのを肉眼で追えば、背景も右から左へと移るのは当然のことのように思います。 しかし、この『Black Bird』ではそうした自明の理が揺さぶられ、鳥はフレームという鳥かごの中で飼われていて、外の世界とはまったく関係のない存在に変貌しています。鳥はフレームの外部と完全に断絶され、この作品からはその外部を想起することはできません。この時点で「鳥が飛ぶ」という一種のロマンを喚起させる現象は消え去り、コンピュータゲームのように予め設定された行動を繰り返す不気味さだけが残されるのです。
 
このように奥村さんは編集という作業を通じてありふれた日常のなんでもない場面に現実と仮想の空間が奇妙に交じり合う別の世界を作りだします。時にそれが可笑しく、また空虚さを感じさせるものであったりして絶えず世界との関係を問いなおしてくるのです。（大橋野鳥の会）
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   <title>パーソナルという切り札</title>
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   <published>2007-05-01T14:24:27Z</published>
   <updated>2007-05-01T21:44:55Z</updated>
   
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      <![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/e/1/e1ad9d36.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/e/1/e1ad9d36-s.jpg" width="160" height="218" border="0" alt="映像展" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://projection2007.blogspot.com/2007/04/blog-post_10.html" target="_blank">PROJECTION企画のメイン・イベントともいえる映画上映会</a>に行ってきました。そこでは、大木裕之さんのいくつかの映像作品と、福岡でおもに80年代に盛んだったという実験映画運動の映像作品が上映されました。作品はどれもそれなりに面白かったのですが、そこで私が気になったのは作品を巡る語り口の方でした。

大木さんの作品については、様々な場所を訪れながら、そこで出会った人たちや風景を撮影し、それを独自に編集することで、自分と世界との関係を捉え直すといった趣旨の解説を主催のキュレーターの人からドネルモで事前に聞いていました。また会場で配られていた京都芸術センターの人の解説によると、「きわめて個人的な視点によって撮影されているがゆえに、大木の作品では、逆説的に普遍性が獲得されている」とのことでした。

しかし私には、正直に言って、それが何を意味するのかほとんど理解できませんでした。たぶんそれは、私が「わからない人」であるせいだとおもわれます。そこでわからない人なりに、そこで感じた疑問を書いてみようと思います。]]>
      まず第一に、大木さんが自分の作品を商品ではないと宣言し、商品ではないがゆえに、独自の視点から世界を写すことができるという趣旨の発言をしていた点です。これは、会場で何度も聞いた「個的」「個人的」「パーソナル」という言葉と通じるものであったように思いました。「パーソナル」な観点から作られているがゆえに、その映像は通常の商業映像がなしえない新しい視角を提示できるのだと。そして「パーソナル」であることは、キュレーターの人のドネルモでのプレゼンによると、通常のアートの枠を越えるものでもあるらしい。

私はそれを聞いて、パーソナルであるのなら、私が両親や友人をビデオで「個人的」に撮影した映像とどう違うのだろうか、それを皆の前で上映することとどう違うのだろうと思いました（私は大木さんの作品はその問題に必ず直面すると感じました）。その疑問については、福岡の実験映画の人が答えてくれました。プライベートとパーソナルは違う。パーソナルとは、映像に撮り手の独自の視点が反映している、つまり作家性がある映像なのだと。

私はそれを聞いてますますわからなくなりました。というのは、商業映画や通常のアート作品はみな、そういう意味での作家性（独自の視点、オリジナリティともいう）によって成立しているはずなのです。とすれば、「パーソナル」が商業映画を乗り越えることができるという主張は一体どこで可能となるのでしょうか。そもそも、商業的に作品を成立させることではじめて自立した近代アートが可能となり、そのアート自体がパーソナルな視点（作家性）によってはじめて可能になっている。にもかかわらず「パーソナル」をよりどころとする映像アートは商品でもなく、また通常の意味でのアートでもないらしい。そしてその区別の根拠は、それが「パーソナル」であることらしいのです。さらにおまけに、それが「パーソナル」であればあるほど「普遍性」まで持つという。まったく理解できません。

私は、「パーソナル」であることになぜそれほどまでに自信を持てるのか、かえってうらやましい気がしました。そうした信念は、自分が文化産業や管理社会の感性支配の外側にいるということを前提しなければ成立し得ないはずのものでしょう。それは一言で言えば、自分の感性と視点こそ普遍的であると信ずる活動家の自己意識であるということができるでしょう。むしろ、「自分こそパーソナル」という切り札こそ、全体的な感性支配の帰結として生ずる思い込みだと私は思うのです。

印象派の作家たちは、自分たちに見える世界のイメージをそのままに提示したと美術史の教科書には書いてあります。その視線は、私のまなざしが捉える世界の像という意味で個人的なものであったのだと思います。とすれば、印象派の作品と、映像アートと、一体何が違うというのでしょうか。ビデオを使っている（動画である）ということ以外のものがあるとしたら、それは何なのでしょうか。(wakattenai)
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   <title>シンボルの力</title>
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   <published>2007-04-27T03:25:24Z</published>
   <updated>2007-04-27T13:33:23Z</updated>
   
   <summary>rGb（random Gravity box）の二つの作品「untitled」と...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/c/f/cffc9962.jpg" target="_blank"><img src="http://image.blog.livedoor.jp/deceptionjp/imgs/c/f/cffc9962-s.jpg" width="159" height="90" border="0" alt="rGb" hspace="5" class="pict" align="left" /></a><a href="http://projection2007.blogspot.com/2007/04/blog-post_01.html" target="_blank">rGb（random Gravity box）の二つの作品「untitled」と「tower」</a>を見た(PROJECTION 北九州−福岡ビデオアート‘07、<a href="http://www.gallery130.jp/" target="_blank">旧百三十銀行ギャラリー</a>、4/30)。どちらの作品も、私たちが普段知らぬ間に影響を受けているシンボル（ブランド）の力を、簡潔かつ絶妙な仕方で表現しているといえるだろう。そしてそれはまた普段ブランドを駆使するデザインに対してもユニークな態度を示しているようにも思われる。
]]>
      「untitled」では、様々な商品が出てきては、10秒ほどのうちに、そのブランド名だけが消えていく。缶詰のラベル、キットカットのロゴ、シャネルの5番、ＢＭＷ、コカコーラ、アディダスの三本ライン、果てはスーパーマンの「Ｓ」、それらのブランドが商品から抜け落ちていく映像が映される。それだけの作品である。しかしその効果がなかなか興味深いのだ。

初めこれは、ブランド信仰や消費社会への批判、またそうしたブランドを消失させ、むき出しの物を顕在化しようとする試みと思われた。そうした趣向はアートの世界ではしばしば見受けられるものであろう。そしてその対極には、消費社会の真っただ中で日々ブランドを作り続けるデザインの世界がある。この作品は一見、そうしたデザインとアートの対立軸を鮮やかに示し、物そのもののあり方を問うアート作品と思われた。

だが次の作品「tower」では、そのニュアンスが微妙に変化する。そこでは様々な街にあるタワーが登場し、消えていく。パリ、ベルリン、東京など、大都市のランドマークとなる代表的タワーから、一見どこか分らない街にあるタワーが、10秒ほどで消えていく。またもや手法は同じ、この繰り返しだけである。

しかしここでもまた面白い効果が生まれる。どんなタワーであれ、それが消えることで、街の顔が一瞬で無くなったように見える。つまりその街の個性とでもいったものが消え、妙に空虚で広漠とした風景が残るかのようなのだ。するとどんなに平凡に見えたタワーであれ、それが街のアイデンティティを支える一種のシンボルであったことに気付かされる。

だから、事ここにいたって、単に物そのものを示すといった趣向は感じられなくなる。むしろ私たちの物（街）との関わりは、それを感覚的に分かりやすく示してくれるシンボルと抜きがたく絡み合っているというメッセージが感じられる。シンボルは物そのもののあり方を覆い隠し、商品化するという否定的な作用というだけでなく、日常の物との関わりを成立させるメディアでもあるのだ。コカコーラやアディダスなどもどんなに一面的に見えようと、そうしたシンボル（ブランド）が私たちと物との関係を取り持っているわけである。

この二作品は、そうしたシンボルの持つ力に対して、完全に否定的な態度を取っていないと思われる。むしろ、そのシンボル作用が私たちの生や物の見方に深く浸透していることを示しているのではなかろうか。そう見れば、rGbのメンバーである耘野兄弟がデザインを仕事にしていることにも納得がいく。つまりデザインとは、そうした私たちと物とのメディアとなるシンボルについて、日々その形態・視覚的な効果などを考える営みというわけだ。そしてそうした営みを対象化するためのものとして、このビデオ・アート作品を捉えることもできるだろう。ここにアートとデザインの対立ではなく、アートとデザインのいわば協同作業が見られるというのは過言だろうか。（BMI-28）
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