今回のトーク・アラウンドは、1977年のイタリア映画『父 パードレ・パドローネ』(6/12,21,29@福岡市立総合図書館ミニシアター)を取り上げます。パオロ・タヴィアーニ / ヴィットリオ・タヴィアーニが監督。原作はガヴィーノ・レッダで、実話に基づいた映画です。
羊の声を聞いたり、風の声を聞いたりする「羊飼いの感性」。そんな自然への感性は、しかし18歳まで無学のまま羊飼いに従事することで体得されるものでした。今回のトーク・アラウンドは、そんな「羊飼いの感性への憧れ」をテーマとし、それに基づく7つの変奏で構成されています。それでは、どーぞ。
[パネリスト紹介]
空想少女→ポストモダン少女、品行方正
没落博士→九州派知識人、いわゆる中年
トンペイ→タジマ出身の書生、下男体質
シンジくん→いまどきの少年、14歳
ケイモー→流浪の民、権威主義的パーソナリティ
[前奏]
ケイモー: 今回のトーク・アラウンドは、1977年のイタリア映画『父 パードレ・パドローネ』(6/12,21,29@福岡市立総合図書館ミニシアター)を取り上げます。パオロ・タヴィアーニ / ヴィットリオ・タヴィアーニが監督。原作はガヴィーノ・レッダで、実話に基づいた映画です。
ガヴィーノ君はイタリア南部の孤島、サルディーニャの羊飼いの家に生まれる。厳格で家父長的な親父の命令で幼い頃に学校から引き戻され、18歳までまったく無学のまま、人里離れた山の中で羊飼いをやらされている。その後、20歳を過ぎてからサルディーニャを脱出して軍隊に入隊。そこで教育され、ついには大学に進んで博士号を習得し、言語学者になる。後に父親の元に帰郷するが、もはやもとの生活に適応できない。この映画のテーマは、啓蒙を求めるガヴィーノ君と前近代的な家父長の確執でしょう。
今回はまず、この映画をプッシュされた空想少女さんに、お勧めの理由や見所など、お聞きしてみたいと思います。
[テーマ:「羊飼いの感性に憧れてる。羊と話したい。」 ]
空想少女: 私があの映画で考えるのは、同じものを見たときに何かの経験とか学問とかを経由すると全く違った物になってしまうということです。どちらかというと私は大して知識人でもないけど、父的な感覚でいろんなものを受け入れたり見ることに憧れてる。羊と話したい。
ケイモー: なるほど。ちょっと、整理しましょう。ここではさしあたり、「幼いガヴィーノの感性=父親の感性」をまとめて「羊飼いの感性」。それとガヴィーノ君が教育された後の「啓蒙された感性」。この二つの対立図式でお願いします。
空想少女: 映画の最初にお父さんがガヴィーノ君を学校から山に連れして教育が始まった頃、静寂の中で色んなものを感じ取るセンスをお父さんがガヴィーノに教えるところがすごく印象的。今の自分でもそうなれるのかなって。皆さんはどうですか?
没落博士: ボクはね、今では何も感じないね。主人公のガヴィーノ君も、子供のときは羊と話せたのに、教育を受けると話せなくなってしまった。空想少女クンも啓蒙されていると思うけど、でも羊飼いの感性も自分に残っていると感じるの?
空想少女: 私の中に残っていると思う時は、夜道を歩いてて後ろに人がいるかもしれないって思ったりする時や自転車に乗っててぶつかりそうって思う瞬間とかの恐怖だな。
没落博士: 暗い夜道は、危ないよ?ボクが、啓蒙の光で照らしてあげようか?あ、ちなみに、ボクの貧困な想像力からすると、幼いガヴィーノ君は山の中で孤立してしまって、お相手が羊しかいないという状況になってしまった。そこで自分の内面の声を無意識に羊に投影したように思えるんだよ。羊と話が出来るなんて、オカルトだろ?
ケイモー:「羊飼いの感性」は、孤立したガヴィーノ君の妄想である、と。憧れもないってことですか?
没落博士: 若かりし時分、昔一人で山に登っていた頃は、大木が話していたような気はしてたねぇ。一度、阿蘇の山の中で迷ったときは、白い犬がずっとついて来た。だが本を読みすぎて、啓蒙され切って、そんな感性、絶滅したかもしれないなぁ。実は、最近寂しいんだよ…。
没落博士: シンジくんは?
シンジくん: 憧れますね。いつも自然の声を聞きたいと思っています。大人は腐ってるし。
空想少女: ナウシカの感性みたいなものかしら?
シンジくん: ナウシカが王蟲の声を聞くあの感性に惹かれます。
空想少女: 私もよく、北海道の美瑛の青い朝を思い出すよ。シンジくん。
[第一変奏:「羊飼いの感性があることに、希望を感じるかな…」 空想少女はつぶやく。]
空想少女:没落博士さんの論文みたいに、たとえそこが自然の場所でなかったとしても、見方を変えれば世界とか空間とかを違ったしかたで捉えなおせるような気がする。そこに希望を感じるかな。
没落博士: 感心感心。ボクの論文は若者たちに読まれているようだねぇ。ただの生物としての羊とか、何もない山の空間とかも、空想少女クンの言う「羊飼いの感性」から見ると、全然違う世界かもしれない。存在のざわめき、そこに希望を感じるということだな。君にはハイデガーをおすすめしよう。
空想少女: イスが違う風に役立つとか物体ごとに切る感じだけじゃなくて、空気を通して充満した、重力とか、空とかも含んでいて。何対何ではなくて360度な感じ。意味わかんないよね。
没落博士: 空想少女クンがそういう感性で『父』を見ていたというのは、ボクの知覚を一変させるよ。ボクから見ればあの父親は、ただの未開人、暴力絶対君主の家父長にしか見えなかったから。でもたしかにそういう家父長は、空想少女クンの言うような「羊飼いの感性」に充たされていた。だからこそ自分の世界、つまり自分の支配権や世界観に自信を持っていたんだろう。ちなみにあの父親はレーニンに似ているな。
[第二変奏:「羊飼いの感性なんて都市民の憧憬やで!」 耐え切れずにトンペイは叫んだ。]
ケイモー: 「羊飼い的な感性」に憧れる空想少女さんやシンジくんに対して、「羊飼い的な感性」から必死に抜け出そうとしたトンペイさん、どうですか?
トンペイ: 空想少女さんの憧れは、しょせん都市民的な憧憬に思えるなァ。
ケイモー: ということは、トンペイさんも、羊飼いの感性への憧れはなし、と。
トンペイ: 憧れというより、僕はそこから脱出して街に出たわけだから。そこまで抜け出そうとはしてないけど、まあええわ。
ケイモー: でも、羊飼いの感性に憧れるのは、都市民の憧憬にすぎないのでしょう?
トンペイ: たぶん父的な世界の在り方(濃厚な雰囲気とでもいうか)が、ガヴィーノ君とかにとっては、恐怖でもあるけど、同時に街に出ると失われてしまうとてつもない魅力を持っているんやないか?
もともと僕はそうした世界の住人で、その世界に息苦しいほどに圧迫されていて、抜け出そうというスタンスなんよ。空想少女さんやシンジくんは、そうしたものと触れたことがない都会育ちのお嬢様お坊ちゃまだから、いまさら魅力を感じるんやないの?田舎の怖さを思い知るべきやで、自分ら。文化大革命万歳!
空想少女: 羊飼いの感性はとか片手間でできなくて、肉体的ものに感じます。ここでいう羊飼いの世界は、村社会みたいな田舎とかよりもっと過酷な中の話では?
没落博士: トンペイ君が住んでいた日本の実際の村社会には、ああいう魔術的な雰囲気があるの?
トンペイ: あそこまでではないですけど。でもなぜか祖父に連れられて、一時間ぐらい歩いて梅を取りに行ったときとかは、かなり怖かった。拒否権とかあまりないんですよ。なんで自分がこれをしよるのか、よく分からんけど、伝統とか慣習とかに体ごとひきづられていくような感じなんですわ。
シンジくん: ところで、トンペイさんは羊飼いの感性的な感性をもっていたことがあるんですか?
トンペイ: あそこまで強烈なのはないけど、夜歩いていると、周りの田んぼで鳴いていた蛙が一斉に鳴きやんだときの静寂とかは、映画のものと近いのかもなァ。でもこういう世界では、対象を鑑賞して楽しむという態度はもう取れなくて、対象が迫ってくる恐怖も抱き合わせな様な気がするで。
[第三変奏:「羊飼いの感性は、今でもきっとどこかにあるんだ…」 そう呟くシンジくんの目は虚ろだ。]
シンジくん: 僕は、そういう「状況」に憧れてるわけではないんです。
空想少女: 私も家父長制には憧れてない。羊飼いの感性とは、伝統とか魔術とかより、生きると死ぬの間で出てくるもっと動物的感性じゃなかろうか?
ケイモー: 原始的・魔術的状況と羊飼いの感性はセットなわけですよね。でも感性だけ欲しいな、と。そういうことでしょうか?
シンジくん:そうです。
空想少女: 感性だけ欲しいよ。
没落博士: その感性だけ欲しいというのが、トンペイ君のいう都市市民の憧憬ということなわけよ。ナウシカには金田一の小説に出てくるような強烈な田舎とか凶暴な自然は出てこないしな。
空想少女: 私の大学時代の神話と映画とゾロアスター教に詳しい男の子は、幼い頃クッションといつも話してたらしい。
ケイモー:空想少女さんのエピソードは、現代であっても、子供の頃の感性に、羊飼い的な感性がのこっているのかも、っていう話ですね。子供の頃、ずっと自転車と対話していたと言う人も知り合いにいるし。
シンジくん: 子供には、羊飼いの感性が少なからずあるのでは?
空想少女: 子供時代だけじゃなくて、都市生活者でも、文化人でも生死に関わる瞬間は感性が戻るのかな。
ケイモーさん:うーん。でも、やはりそんな原始的・魔術的・危機的状況から、僕達は抜け出してきたんですよ。啓蒙を通じて。で、いざ啓蒙されてみると、もはや取り戻せないものとして「羊飼いの感性」が魅力的に見えてくる、ということだと僕は思うのですが…。
空想少女: 私は大学生の頃、家父長制なしで「羊飼いの感性」だけ頂きたいと、ドゥルーズや荒川修作に希望を探していました。
没落博士:まあボクの学説によれば、 魔術的なメッセージというのは、誰が誰に何のメッセージを発しているかが未分化な状況なわけ。自分が言っているのか羊が言っているのかが未分化なんだよ。いわゆる『虫の知らせ』も、肉親と密接な関係にあるから、誰が発したメッセージか分からずに、何かのメッセージを受け取ってしまう。言語を対象化する以前であり、言語の中に住み込んでいるという状況だな。こうした魔術的メッセージに対して「誰が」という主語を明確化するときに啓蒙がはじまる。とするとガヴィーノ君がサルディーニャの言葉を学問の対象にして博士論文を書いて、啓蒙されてしまったのは象徴的といえよう。
ケイモー: ガヴィーノ君は、まさに言語を対象化する学問=言語学の先生になるんでしたね。彼は、啓蒙によって脱したはずのサルディーニャに戻ってきてしまう。でも、かつての感性はもはや戻らない。というのも、かつての生活様式に身体がまったく適応できないからです。サルディーニャの丘に佇む、最後のガヴィーノ君の後姿は、なんともやりきれない。
没落博士: そうそう。まず始めは言葉ありきで、誰の言葉か分からないけど、声だけが「聞こえる」状態がある。そこから「その言葉は誰の言葉だ?」と探求がはじまる。魔術的段階においてそれは、たいてい神の言葉ということになる。でもそのあと啓蒙がすすむと、誰の資格で誰に向かって言葉が発せられたかが厳しく問われるようになり、言葉が指している事態の「真理」が問題にされ、その真理との関係で発話者の責任が問われるようになる。空想少女クンがいうように、現代思想の先端では、もう一度言葉のもつ魔術的・パフォーマティブな側面が注目されるようになっているのだよ。
ケイモー: ということは、現代思想では、羊飼い的な感性を復権できる、あるいは違った仕方で展望できるってことをどのように考えているのでしょうか。
シンジくん: ディープエコロジーとかディープリスニングなんかは、まさにそれを目指しているような気も。
没落博士: そのとおり。聞こえるのと読み書きするのはメディア論的にまったく違う。幼いガヴィーノ君は、読み書きできないから聞こえることができた。羊の声は「聞こえる」けど、羊がイタリア標準語でタイプ打ちの書類を彼に出して来たりはしない。映画のなかでそういう近代的な文書主義を体現していたのはドイツ人だ。奴らにとっては書類と署名がすべて。だから近代を乗り越えようとする現代思想ではハイデガー以降、読み書きより聞くことが強調されるわけだよ。
エコロジーとリスニングはかの高名な藤枝守先生がおっしゃる通り、表裏一体なわけ。発信主体の分からない漂流するメッセージを聞いて、ある種の身体的対応をするということなんだよ。ダンスとか、音楽とか、エコロジーとか、身体性とかがそう。荒川もドゥルーズも、そういう感じ。ドゥルーズとガタリとか、アドルノとホルクハイマーとか、二人で書くというのはその走りだな。もっとも近代啓蒙にどっぷり浸かった文献研究者は、どの部分をどっちが書いたかとかいう研究を大まじめにしてしまうのだけど。
[第四変奏:「羊飼いの感性は絵に描いた餅なのでは?」 卑しきケイモーは、執拗に疑う。]
空想少女: ほんとに、都市生活と「羊飼いの感性」は絶対に一緒に持てないかな?荒川修作の養老反転地とかこうであるはずの真っ直ぐな道をゆくのから昔ながら?の凹んだりとんがったりの中で住んだりすると感性も運命も変るんだって言ってたよ。生れた時の赤ちゃんの「こうであるはず」という仮定のない身体感性が重要だとかね。
ケイモー: なるほど。でも今回の映画が主題としていたように、羊飼い的な感性と原始的・魔術的状況は一体ですよね。片方だけは、成立しえないのではないでしょうか。となると、現代思想なりなんなりは、所詮絵に描いた餅の話になるのではないでしょうか?
つまり、僕は思うのです。いろいろやってみても、結局は啓蒙された人達によるナイーヴな憧れにすぎないのではないか、と。僕がこの映画を面白いと思ったのは、羊飼い的感性を可能にしている原始的・魔術的状況(=プレモダン)が地獄だ、ということを同時にきちんと描いているってところです。そして人は、そこから抜け出さざるをえなくして、抜け出してきた。羊飼い的感性は失われざるを得なかった。でも、そんなプロセスをなきものとして、あたかも「羊飼い的な感性」が啓蒙された状況でも成立する余地があるかのように言うのは、いかがなものか、と思うのです。
没落博士: 難しいね。藤枝守先生とかはどうなのかな。
シンジくん: 藤枝先生は憧れで終わらせたりしないように思うんですけど、どうでしょうね?
空想少女: 長期的予想とか大きな仮定を立てるときの脳に対して瞬間的流動的な捉え方なら可能かな。前に書いたみたいに生死に関係する時、努力しなくても勝手に感性は甦ってると思う。だけど温暖化の予想みたいに大きなことって、こうだからこうなって…っていうように、系統立てたり学問的感性結集するじゃない?
没落博士: 右脳だな。考えるのではなく、感じるわけだよ。フォースだよ。
ケイモー: どういうことでしょう?
没落博士: 理性的論理的思考を司る左脳と、直観的・芸術的な右脳。右脳は地頭ともいう。コミュニケーションとか営業とか、場面に応じてとっさに相手の思いを「聞いて」対応する能力のようなものって、聞いたことあるでしょ? 恋愛するにも左脳人間は相手を怒らせるばかりだとか。ボクのようにね!(苦笑)・・・羊と恋するにも右脳が必要なんだよ。
ケイモー: なるほど。空想少女さんは、右脳の可能性に、羊飼い的な感性の余地を見出したい、と。
没落博士: アートだよ、アート。イマジネーション。羊を直感的に感じればいいんだよ。
ケイモー: うーん。トンペイさんが途中退席したこともあるし、あえて批判的な立場に立ちます。藤枝先生にせよ、やはりアート的な主張はなかなかに厳しいでしょう。というのは、「絵に描いた餅」が絵に描かれたものではなくて、本当のもちだと思っているふしがあるから。
僕が思うに、啓蒙されちゃった人達には「羊飼いの感性」はどうやっても戻らない。その感性は原始的状況とセットだから。というか、そもそもの「羊飼いの感性」すら、啓蒙された側からの一方的なイメージの投影かもしれない。問題は、そういう「羊飼いの感性」が「絵に描かれたものである」っていうことを、憧れる側が自覚しているかどうか、だと思うのです。「憧れる」にも2タイプあって、つまり「手に入ると思っている憧れ」と「絶対に到達できないものとして、それでもなお憧れる」っていう2タイプがあるわけですが。
没落博士: 二つのタイプの例を出してくれると分かりやすいな。
ケイモー:藤枝先生は前者のタイプでしょう。純正律に、人間と自然の調和を認めているから。後者は、例えば最近の宮崎ハヤオです。
シンジくん: ハヤオさんはまさに後者ですね。
空想少女: 事故りそうな瞬間とかに全身が研ぎ澄まされる時があるじゃない?時々現れると思ってるんだけど。
没落博士: そういえば、戸塚ヨットスクールは、海に生徒を投げ込むと「間脳」が覚醒すると言ってたぞ。半端な啓蒙が人間の生物としての力を弱らせ文明病にかからせる。だから非行に走る。非行や引きこもりを海に投げ込むと、生命と直結する古い脳が覚醒するらしい。ときどき死ぬけど。
ケイモー: それは前者ですよ。啓蒙の最先端で、魔術が回帰している。
没落博士: 草間弥生は?
ケイモー: 前者でしょう。 草間さんは、彼女の状況が魔術的状況そのものなわけですから、草間さん自身は、相当苦しいはずですよ。治療として創作していたわけだから。
没落博士: エヴァ初号機も前者だね。
シンジくん: 暴走したエヴァは全部そうでしょう
[第五変奏:「羊飼いの感性に憧れるっていう構図が、まさにポストモダン的なのだ」
そう指摘する没落博士は、どこか得意げで、自信に満ちている。]
没落博士: この映画の中には、羊と話することに『憧れる』人物は一人も登場してこない。つまりこの映画は、前近代(プレ・モダン)と近代(モダン)の対立の中を動いている。でも、今この映画を見る観客は、この映画をポストモダンの文脈の中で見てしまう。そうすると、映画がまったく想定していなかった、プレ・モダンへの憧れという見方が現れる。ラストシーンの主人公の挫折した背中の次に出てくるのは、空想少女クン的な視線というわけだよ。
シンジくん: ああ、そうですよね。たしかに。なるほど。
ケイモー: 前近代(親父)と近代(啓蒙後のガヴィーノ)の対立を描くこの映画で、ガヴィーノ君の近代への移行は、国家・軍隊という国民国家的なシステムにおける教育を通じて、初めて為されました。「親の顔は忘れても良いが、国旗の意味を忘れてはいかん」という軍隊の教えが、近代システムのあり方を端的に象徴しています。家族ではなく、より広い国民・国家という紐帯で、人々をつなげようとする。
没落博士: 監督は、イタリア僻地への近代(学校・軍隊・国家)の侵入に対して、前近代(父、家父長)がもはや圧倒的に脆弱かたちでしか抵抗できないその有様を描いていた。そしてそれと同時に、前近代としての父を打倒した啓蒙=近代には、もはや行き先がないことも示していた。これは高度経済成長の頃の歴史意識だと思うのだよ。水俣病事件を彩る感性とまったく同じ。
その近代が挫折して初めて、民衆史というか、前近代の再評価がはじまる。これがポストモダン。映画はガヴィーノ君の挫折した背中を映し出すことで、この再評価以前のところで終わっている。ボクにとってこの映画が印象的だったのは、言語学というまさに啓蒙の最先端の学問にまったく行き場がなくなったということだね。ガヴィーノ君はサルディーニアに生まれ、サルディーニア方言を研究したというのに、サルディーニアの人や文化と全く交わることができなくなってしまった。実はボク自身にも、行き場がない。九州にいるけど、クッキングパパ的な「博多もん」と、ボクは相容れないんだな。学問の意味喪失だよ。
[第六変奏:「羊飼いの感性はともかく、モテる近代とモテない近代があるわけで…」 没落の独白は続く。]
シンジくん: ちなみに、どうだったら行き場があって、希望あり、ってことになるんですか?
没落博士:たとえば哲学が歴史をリードするとか、民衆が魔術から解放されて主体的になって民主主義が発展するとか。哲学者と人々が固く手を取り合って啓蒙の理念に身を捧げるとか。ボクの本が売れるとか…(虚笑)。
ケイモー: 近代=啓蒙の構図ですね。そこで学問は、希望であった、と。
没落博士: 昔はサルトルが講義するというと、講堂に人が入りきれないほどあふれて、その講演は直ちに出版されて、講演を聴けなかった人はそれをむさぼるように読んで、さらに議論が発展して、5月革命が起きて、アルジェリア戦争が終結するとか、そういう『希望』だな。ファッション・デザイナーのJUNYA TASHIROさんなんか、うらやましいよ。
ケイモー:えっと、TASHIROさんはどううらやましいのでしょうか?近代的なあり方ができているから?
没落博士: TASHIROさんや東京コレクションは制度としては近代そのものだよ。コレクションという学会発表がファッション界をリードする。会場へのインビテーションは奪い合いで、批評があって、それを新聞がただちに号外で報じて、雑誌が特集して、人材が集結して、人々が楽しめたり救われたりして、人々の生活を豊かにする産業が成立する。
ケイモー: そうですね。近代的なものは、現在においても、一方においては隆盛を極めているわけですよ。
没落博士: ガヴィーノ君に華はあったのか?彼のラジオから流れてくるモーツアルトには?言語学を教える大学には?勉強して博士になっても、落ち込んだ背中しか見せられない。ガヴィーノ君、あの後ほんとにどうするんだろ。やっぱりローマ辺りで古本屋とかするのか?
シンジくん: 「ガヴィーノ・レッダは現在66歳でシリゴの実家に住んでいる。ガヴィーノの父は健在で、97歳になる。現在のレッダは、父親の教育は殴ることを除けば正しかったと思うようになったと、語っている。(2004年)」のだそうですよ。
ケイモー:親父は正しかった、かあ…。それもまた、都市民的な憧憬としてしか成り立たないものだろうなあ。「殴る」と「羊飼い的感性」は、不可分でしょう。
[第七変奏:「消費社会では羊飼い的な感性も商品になっちゃうわけ」 知識人を気取るケイモーが言う。]
没落博士: まあ、同じ近代的なものでも華があるのとないので運命が分かれる。ポストモダン的転回ができなかったモダンが没落するわけだよ。
シンジくん: ところで、「華」ってなんでしょう?
没落博士: 華って、消費社会だよ。
シンジくん: 消費社会か・・・。
ケイモー: 転回できたモダンが、例えばファッション業界ですね。ポストモダン状況である今日から見れば、前近代にせよ、近代にせよ、いずれにせよ、憧憬や消費の対象になってるってことでしょう。消費できないモダンは没落する、と。消費できるモダンは消費の対象になる、と。消費できなかったはずの前近代は、消費の対象へと変形される、と。
まあそれでも近代は、ともすれば近代のままファッションになることもできるわけです。でも前近代は、ヘヴィな部分が完全に骨抜きされて、変形されてしまいますよね。
没落博士: 前近代はね、ファッション化されるよ、見事に。世界遺産とか町並み保全とか。
シンジくん: 「伝統」とかですか。
没落博士: 羊の声が聞こえる真空管ラジオとか、どこかのメディア・アーティストが作りそうだよね。
シンジくん: 犬の声を聞くバウリンガルならありますよ。
ケイモー: そんなのあるんだ? まさに「羊飼い的感性」の商品化ですね。
(2008年6月某日)


