日本人によるクラシック演奏団体BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)の演奏会に行ってきた(2008,6,12@アクロス福岡)。その演奏に透けて見えたのは、とある「逆襲」の計画である。それは、日本のクラシック演奏家をいじめてきた西洋近代の音楽観への「逆襲」だ。西洋近代音楽は、旋律やリズムや和声を不断に発展させる展開の妙にこそ、芸術的意義を見出した。そこで音楽は、記憶の芸術であり、聴き手の記憶の中で、感情のドラマになったり、巨大な構築物としてそびえ立ったりするものだった。そして演奏は、そういうプロセスを適切に表現すべきだった。
だがBCJは、この考え方に反発する。音楽を感情や知性で捉えるのではなく、ひたすら感性の次元で享受すべきものと考える。BCJよれば、音の背後に感情の起伏やら偉大な精神やら聴くなんて、おかしな話だ。音楽はもっと、純粋に音と人間が関わる局面にあるはずだ。そんな局面に、西洋近代音楽の出発点と目されているバッハを還元してしまおう。だってバッハは、いや音楽は、もともとそんな局面での営みのはずなのだから。そのようにして、BCJの逆襲計画は進んでゆくのである。
BCJの演奏の印象を、一言で言えば「清貧」である。各楽器の響きは平坦に慣らされ、ニュアンスも最小限度に留められる。実にわきまえられた演奏で、無駄な表情付けなど一切ない(徹底していたのは、ブランデンブルク第5番でのフルート)。どの瞬間も美しい響きに整えられ、様々な響きが立ち現れる。だがその差異は、同質の響きにおける差異である。油彩画ではなくて、水墨画の色合いに近い(特にそう感じられたのは、第3番)。そこでは、その都度その都度、響きが美しく立ち現れては消えてゆく(まさにそんな感じだったのが、第1番第4楽章での木管重奏)。それは、西洋近代音楽が念頭に置いていた、有機的に展開してゆく時間のプロセスとは、根本的に異なるもの。過去も未来もなく、そこにあるのはひたすら現在。それは、60年代アメリカ産のミニマル音楽の印象にも似ている。
そんなBCJの演奏は、、アクロス福岡の場合、むしろステージから遠く離れたところで、より美しく響く。過剰に響きすぎるこのホールでは、室内楽など細やかなニュアンスの妙を楽しむ場合、ステージ近くの席でないとあまり意味がない。なぜなら、ステージから遠い後ろの席では、繊細な表情付けが、ぼったりした響きのオブラートに包まれてしまうから。だがBCJによる演奏では、ニュアンスが可能な限り排除されていた。そのためだろう、ステージ近くの席で響きをクローズアップして聴いてみても、あまり多くの発見を得ることはなかった。むしろ後ろの席のほうが、純粋にまろやかな響きを楽しめるように思われた。
おそらく、響きの細部に繊細な表情の綾を聴き取ったり、バッハの緻密な音構造を知的に捉えようとする西洋近代的な聴き方は、BCJの演奏に相応しくないのだ。そんな考え方は、西洋近代の悪しき産物だ。音楽とは、もっと素朴に、感性のレベルでのみ捉えられるものではなかったか。そうであるならば、何も考えず、ひたすらに現れては消えていく響きに淫する態度こそ相応しい。BCJの演奏は、そういう態度を聴く側にも求めてくる。
したがって、BCJの演奏は、音楽に特別な意味を見出して感動したい近代主義者を困惑させる。音楽に感情を見出したいロマン主義者、音の緻密な構造に高度な精神性を見出したい構造主義者…etc、彼らはBCJの演奏を「ニュアンスに乏しい」「薄っぺらい」「起伏がない」「展開していくように感じられない」「退屈だ」などと、批判するだろう。しかしそれらは全て、BCJにとっては賛辞にほかならない。なぜなら彼らは、バッハをひたすら純粋なる響きのパルスに還元することを目指しているのだから。BCJの演奏は、音という記号の背後に意味を見出すことができなくなるくらいにまで、音楽のニュアンスを切り詰めていく。そうやって音楽は、何かの意味を担うことをやめ、純粋な響きで空間を満たす。私たちは、その響きの快楽に身をゆだねる。かくして音の背後の世界は根絶される。音の背後に精神や感情を見出す西洋近代音楽観への逆襲、ここに極まれり。
こんな逆襲計画を企てている演奏団体は、世界的にも稀だろう。たしかに、古楽(作曲当時の楽器や演奏様式で演奏するスタイル)は、西洋近代的な音楽観・演奏観のアンチとして登場した。だが古楽が目指したのは、近代演奏が取りこぼしたニュアンスを、別の仕方で復権しようとすることだ。決してニュアンスそのものを否定することではない。だが、古楽演奏団体のはずのBCJは、ニュアンスの成立する次元を根絶しようとする。そのスタイルは、古楽にあってもやはり異端だろう。BCJは古楽にあって、古楽にあらず。
じゃあ何なのか。「日本人の演奏」というよりほかはない。西洋本場の演奏家と常に比較され、「音程は正確だが、リズム感がイマイチ、ニュアンスに乏しい…」etc、何かといじめられてきた日本のクラシック演奏。その欠点を利点として捉え返す点から、BCJの逆襲は出発する。そんなBCJが、近代批判の叫ばれて久しい西洋でも高く評価されているというのは、痛快な話だ。ある意味、BCJは最先端の思想の実践なのかもしれない。となれば、その意味でもBCJは、まさに「日本人の演奏」というカテゴリーにおいて、捉えられるべきだろう。記号の背後の次元(意味)を根絶し、純粋な記号の差異の中で戯れる。高度な消費社会において初めて成立する、そんな最先端のセンスを持つ人達が大多数を占める国は、今日の世界にあって、日本をおいてほかにないのだから。(モダニスト)



コメント (2)
この演奏を聴きましたが、確かに薄味で、どこも盛り上がらずに淡々と進み、眠ってしまうくらい角のない演奏でした。私のような初心者には、2時間強の演奏の中で、どこにも差異を見つけられないくらい同じようなフレーズの反復でした。
モダニストさんは、逆にそこに西洋的な過剰な意味の詰め込みや緻密な構造化に対抗する積極的な意義を見出されているようですが、私にとってこのコンサートは会場で心地よく眠るために訪れたようなものでした。こうした事態もまたBCJのもくろみに沿うことなのでしょうか?
また最後に、この演奏が記号の差異の戯れという現代社会の多様性・構造性をもつように指摘されています。が、私には逆に同じ曲が無限に反復され無意識に体にリズムを染み込ませるような民謡や子守唄に近いような気がします。そうしてみると、他の聴衆の方たちがどこか安心した面持ちでくつろぎながら聴いているように見えたのも納得できるような気がします。まるで会場全体が、他より卓越した演奏を聴き、その演奏を理性的に評価する批評の場というよりも、全員を故郷というか感覚共同体でまろやかに包み込み、くつろいだ親近感に身を委ねさせるコミュニティとなったかのように。
現代の子守唄 | 2008年06月21日 01:43
2008年06月21日 01:43
コメントありがとうございます。レスが遅くなって失礼しました。
BCJの演奏の抑揚のなさは、静かで変化のない村的感覚に通じるものだ、それはむしろ、民謡の印象に近いのだ、との御指摘でしょうか。たしかに、民謡は何十番までもあったりして、変化のない反復的な世界観を代表するものですね。
ただバッハの曲は、民謡のようなメロディ単位の反復というよりも、もっと小さい単位のフレーズの反復・増殖といったイメージかと思います。それをBCJのように演奏すると、それは、ほとんどミニマル音楽のような印象になると、僕は思いました。そしてそれが、めくるめく記号の差異が展開されてゆく今の日本の印象に近いなあ、と思ったのです。時間の進展があまり体感されない静的な印象、という意味では、「現代〜」さんと行き着く先は一緒みたいですけれども。
それと、僕のレビューを「西洋近代へ対抗する積極的意義をBCJに見出している」ものと読まれたようですが、ちょっと買いかぶりすぎかな、と。あくまで僕のレビューは、BCJの演奏がどうしてあんな感じなのか、そしてそれが日本(福岡)の聴衆にどうして受けがいいのか、といった疑問に対して、僕なりに分析して答えを与えてみた、という程度のものです。
そのため、BCJが実際どのように考えているかどうかは、あまり問題ではありません。演奏者の意図がどうであれ、実際に聞こえてきた演奏の印象から、BCJの戦略を僕なりに再構成してみたわけです。
なので、質問にお答えするならば、「現代〜」さんが心地よく眠られたのも、僕の再構成したBCJの戦略には実に適っている、ということになるかと思います。
ちなみに、あの晩のBCJの演奏に対する僕の評価については、言うまでもないでしょう。「モダニスト」ですから。
モダニスト | 2008年06月25日 23:02
2008年06月25日 23:02