ボルドー市と福岡市は姉妹都市であり、その交流事業の一環として今回の演奏会が催されました(アクロス福岡、2008/5/8)。その演奏から見えてくる文化交流とは何だったのでしょう。
プログラム前半は、ラヴェルの組曲『クープランの墓』とモーツァルトのクラリネット協奏曲。そこで指揮者クワメ・ライアンとボルドー管は、「これぞクラシック」とでもいうべき、きわめてオーソドックスな演奏を繰り広げました。適切な配置を与えられた音は重力のくびきから離脱し、その様はあたかもクラゲや雲のようにふんわりと、ゆったり呼吸するかのよう。とりわけモーツァルトでは、多彩なクラリネットの響きにオケが完全に寄り添うように一体化しておりました。まさに天にも昇らんばかり。揺りかごが優しくたゆたうようなあまりの心地よさに、眠ってしまう人が続出でした。それは実に正しい鑑賞態度だったと言えましょう。さすが福岡市民、西洋文化の本質を身体レベルで捉えていたのですね。
ライアンとボルドー管のえもいわれぬ響きは、友好都市福岡を拠点とする九州交響楽団の響きとは印象を異にしています。九響の、とりわけ弦楽器は、弦を上から押さえつけるような、垂直下降的に押し込めるような、そんな重々しい音を出すように感じられます。これは天ではなく地へ向かう、まるで田植えを彷彿とさせる印象を残します(ダンスに詳しい方は、クラシック・バレエと暗黒舞踏の対比を思い起こされるとよいかもしれません)。それは決して西洋的な意味での「美(=調和=きれいだなぁ)」ではない。言うなれば、むしろ「崇高(=おぉ!すげー)」です。欧州と日本双方の文化の違いが、響きの違いに表れているのです。
「美」と「崇高」。一見対立するこのあり方に、ひとつの解決の仕方を示していたのが、後半のシューベルト交響曲第8番「グレイト」でした。一般に、シューベルトはロマン主義的な音楽の代表者の1人とみなされます。そして、ともすれば「ロマンチック」とは、感情的な高揚ととろけるような甘い心情、あるいは激情などを表すものとして理解されがちです。しかしライアンは、これを厳格に理性的に解釈していたように思います。
クワメ・ライアンは、決して細部を疎かにすることなく、しかし快活なテンポで音楽を進めます。この曲のキモが基本リズムと基本音型の無限反復にあることをきちんと押さえた、きわめて構築的な演奏でした。そしてそのような演奏解釈から、シューベルトの「ロマンチック」の一つの側面が浮き彫りになってきたのです。つまりそれは「美」と「崇高」の対話と一致というストーリーでした。
きれいで流れるような、あるいはかわいらしい高音部の旋律。それは全体的な調和を宗とする美しい部分です。前半のモーツァルトは全面的にこの「美」の部分に対応します。しかしシューベルトの時代になると、この「美」がそれだけでは説得力を失ってしまう。美はその調和を破られ、破綻した心情となって漂流する。その様に対応するのが、シューベルトの第2楽章です。第2楽章の途中には、次第に足取りが重々しくなり、調和の破られる局面が現れます。その際の、弦楽器の重い壁のような響き。この重く暗い部分は「美」を凌駕し、それを破綻に導くものという意味で「崇高」と呼べましょう。
思い壁のように見えた「崇高」の部分は、続く第3楽章では勢いよくうごめき、運動を始めます。「美」と「崇高」の対立と矛盾は、そうやって「美」の部分との連関をとりはじめ、やがてはより高い次元での総合を目指そうとするのです。ただしシューベルトにおける総合は、調和がひとたび崩壊している分だけ、やや強制的で無理やり感がつきまとうものになってしまいます。
フィナーレでは、ベートーヴェンの第9のメロディやら何やら、様々な要素が登場し、それらの総合が目指されます。もっとも、そこで総合へのプロセスを推し進めるのは、ライアンによって一貫して厳格に保たれるリズムなのです。つまり、音楽の内側から自ずと総合が達成されるのではなく、外部から強力な規範が与えられることで、かろうじて総合が達成されるわけです。そうやって矛盾が総合されると同時に、もはや美的調和がモーツァルトほどには不可能であることもまた、全体を通して表現されてしまうのです。
クワメ・ライアンは、いわゆる「ロマンチックな演奏」ではなく、「ロマンチックとは何か」を諭す演奏をなしていたといえるでしょう。ラヴェル、モーツァルト、シューベルト、それぞれが何であるかを折り目正しく、その魅力の頂点において示す。そんな理知的でしかも官能的なパフォーマンスでした。そしてそのことを通じて、美と崇高、西洋と日本、ボルドーと我らが福岡、それぞれの関係のあり方をも示唆していたように思います。友好に相応しい夜であったといえましょう。(erhaben)


