旬の話題を取り上げて、あれこれ放談するドネルモ・トーク・ア・ラ・モード。今回取り上げたのは、映画『14歳』(シネテリエ天神にて4月末に公開済)です。
「学校」というシステムが一体何であったのか。そしてそこでは、どのようなことが起きていたのか。大人になってからでは取り戻すことのできないあの頃の感情を扱ったこの映画を巡って、学校、教育、教師、いじめ、暴力のあり方等々、かつて14歳だったドネルモの人々が話しております。それでは、どーぞ。
山内家: では、はじめましょう。今日は、映画『14歳』の座談会です。パネリストは、ポニーテールKさん、i-iさん、フラミニさん、Na+さんです。よろしくお願いします。
【映画『14歳』】
山内家: 最初に、映画『14歳』について。『14歳』は、第16回PFF(ぴあフィルムフェスティバル)スカラシップ作品として、制作されています。PFFとは、“映画の新しい才能の発見と育成”をテーマに1977年にスタートした映画祭のこと。でPFFスカラシップとは、PFFが製作から劇場公開までをトータルプロデュースする長編映画製作援助システムとのこと。自主制作映画のコンペ「PFFアワード」でグランプリ等の賞を受賞した監督から、企画書を募り、プロデューサー、PFFパートナーズ各社が約3ヶ月の期間をかけてセレクション。そして、最も期待したいフィルムメーカー1名に映画制作を援助していくのだそうです。だから、14歳は完全な自主制作映画ではなく、自主制作映画をサポートする団体からサポートされてできた映画、ということになるでしょう。
山内家: 次に、映画について。映画は、かつてピアノが大好きだったがやめさせられた「測量士・ピアノ講師」や14歳のときに彫刻刀で教師を指した「中学教師」らが現在の様々な14歳と関わっていく群像劇でした。14歳の少年少女はといえば、お母さんに溺愛されている「ピアノ少年」、受験のために大好きなバレエをやめさせられたバレエ少女、「やられたらやりかえす」を地で行く長髪の少年、勉強がよくできず髪もぼさぼさの「みっちゃん」、ピアノ初年のことが好きなクラリネット少女等々。すいません、登場人物の名前をほとんどおぼえていないので、上のような書き方になってます。そんなとこでしょうか。
【『14歳』のリアリティとリアル感】
山内家: では、映画の話をしましょう。ポニーテールKさん、いかがでしたか?
ポニーテールK: この映画は14歳についての偏見をあおりかねない。この映画では、他人のちょっとした言葉に傷ついた14歳たちが、すぐ相手を刺したりこん棒で後頭部を殴ったりするわけです。あのぐらいで刺していたら、今頃日本中、中学生に殺された屍だらけですよ。たとえば「ゲームおたく」という題名で、現実とゲームの見境がつかなくなった引きこもりのおたくが次々と人を刺していく、という映画が作られたとします。この前の事件みたいにたしかに無差別に刺す人もいるかもしれないけど、そんな人はごく少数なのに、おたくはみんな危ないと思われる。それと同じ効果をこの映画は14歳に及ぼしかねない。議論の前提として、ここは押さえておくべき。
山内家: リアリティについて、他の方はいかがでしたか?
i-i: リアリティのなさは、記憶の中の自分を見ようとする視線から切り取られているからだと思いました。現在の自分が14歳の自分を回顧して、トラウマを核に物語(にならない物語)を作っているというか。
監督を含めて制作者側も、記憶の淵を探るように撮るしかなかっただろうと思われるので、14歳を表象しようとする段階で避けられないことかなと思います。一瞬を切り取った「断片」「断片」・・のカットは、記憶の破片をつなぎ合わせたみたいだったし。監督や登場人物らの、決してスクリーンには映らない「視線」や「欲望」を感じることもありました。
フラミニ: 私はこの映画、『14歳』と言うタイトルであるにもかかわらず「14歳のリアル」だとか「本当の気持ち」だとかはほとんど顧みられてなくてあくまでもかつて14歳だった大人が現在14歳の子供を全然理解できないようにひたすら描かれているように感じました。
山内家: なるほど。Kさんの書いているリアリティが「現実の14歳はこうである」という意味でのリアリティだとすれば、その意味でのリアリティを僕も感じませんでした。でも、あんな感覚だったかも、という意味でリアルな感じはしましたね。この映画はそもそも「現実の14歳」を描いているわけではなく、i-iさんやフラミニさんの指摘するように、思い出せない何かを巡ってあれこれやった結果のイメージとして「14歳」が描かれているように思いました。
Na+: 僕もそんな感じです。大体あの映画には携帯電話を使う生徒の描写が出てこなかったですからね。今だったら、「深津、精神病院通院」とかは、黒板なんかに書かないですよ。携帯で、ネットで、こっそり、みんなに回されるはずです。また僕個人の過去と比べてみても、自分たちの「14歳」は、映画よりももっと幼かったような気がしますね。
ポニーテールK: なるほど。そうすると、これは大人たちのノスタルジーを現実の14歳に投影した、ということになるのでしょう。今日の14歳の問題はむしろ、対人的な(対教師的な)暴力すらすでに抑圧されてしまい、それが内面化して、ひきこもりとか、自傷行為とか、自殺とか、そういうふうに、自己暴力として発動される局面にあると思うのです。気に入らない大人やいじめっ子に暴力を振るっているうちは、まだいいともいえる。
相手を刺すという行為は、エネルギーを他者に向けているわけで、映画にもあったように、それをコミュニケーションの糸口にすることが可能なわけです。しかし本当に自分を閉じて引きこもってしまった人とはコミュニケーションの糸口すら掴めない。そうすると映画にならない。だから外面的な暴力を中心に描いたのではないでしょうか。実際に、1980年代の校内暴力、対教師暴力が徹底的に抑圧された後で、いじめとか、引きこもりとかが本格的に問題化しました。いわゆる少年少女たちの一番根の深い問題は、いまや外的暴力というかたちをとらないコミュニケーションの歪みや遮断にある。
たしかにこの映画でも、バレエ少女が歪んだ人間関係を作り出すところが描かれていた。そこは良かった。
【ダブルバインドと二重の否定】
ポニーテールK: それから少年少女たちの傷つき方にも違和感を感じた。つまり、ピアノ少年にせよ、バレエ少女にせよ、自分のやりたいことがまずあって、それが大人社会によって抑圧されているという構図で傷ついているように見える。こういう場合よりも、むしろ自分のやりたいこと、つまり自分の成長のあり方が分からなくて、悶々としている場合の方が、より多いのではないかと思います。単純な抑圧図式より、なんだかわからないけど、ウサギ殺した、というあの深津先生の事例の方がリアリティがあるような気がしました。
山内家: どうでしょう。14歳として登場する彼らが、「自分達のやりたいこと」としてバレエなりピアノを考えているわけではない、と僕は思いました。ピアノ少年も、自分がピアノを大好きというよりも、お母さんとの関係でピアノに関わっているようでしたし、バレエ少女も受験勉強ではないあり方として、たまたまバレエがあったように思います。
i-i: そうですね。ただ、欲望は、常に他者の欲望を自らの欲望としていくという意味では、どんな欲望もそのようなものであるかとは思えますが。
ポニーテールK: なるほど。お母さんに「お勉強ばかりではね」と言われてピアノに誘導される。それを自分の「やりたかったこと」にさせられる。でもそれを、もう一度「興味ない」とお母さんの共犯者であるピアノ教師から否定される。誰かに付き従うことで形成されるはずの主体性の行き場がなくなる。
山内家:ピアノ少年の、「僕はピアノを続けたほうがいいのでしょうか?」という問の発し方は、そのダブルバインドなあり方を端的に表していましたね。ピアノなり、バレエなり、高級文化は、基本的にしつけの一貫として行われるのが常ですから。
i-i: 二重に否定されるようなものですね。
フラミニ: そうするとピアノ少年(雨宮くん)がピアノ講師に否定され、刃物を持ち出すというのは「やりたかったピアノ」を否定されたからではなく、学校教育とは別の可能性としてのピアノを否定されたから、なわけですね。
ポニーテールK: 学校の勉強ちゃんとやれば自分が立派に成長していける、というのはまったく信じられない。そこで、そういう方向性からちょっと外れるように見えるところに何となく可能性を感じる。許されているような、許されていないようなところです。そこに誘導され、しかも否定されて、行き場がなくなるという感じでしょうか。どうしたらいいかわからない。バレエ少女においては、その鬱屈した負のエネルギーが、明確な欲望を持って葛藤なく何かを目指しているように見える教師とか、ファッションに憧れる貧乏な少女とかに向けられる。
山内家: 二重に否定されたことに対するストレスは、いじめへと捌け口を求めるわけですね。バレエ少女に、典型的に表れていたように。
フラミニ: バレエ少女はまさにKさんがおっしゃるような構図ですね。雨宮君の場合もピアノ講師にだけその怒りが向うのではなく、彼に思いを寄せる女の子にもその矛先が向っているように思えます。彼女は雨宮くんやバレエ少女が抱えるそのダブルバインド状態になく、もっとも主体的に行動しているわけですし。
ポニーテールK: 自分は主体性を持ち得ない、つまり自分はどう育っていいのか分からない、という怒りが、主体性を持っているかのように見える者を否定し、それを突き崩すように発動される。バレエ少女は貧乏な少女を美容院に誘惑し、その気にさせて、それを裏切るわけです。自分がされたことを他者にするわけです。正確な学習です。
Na+: 初め僕は、ピアノ少年とバレエ少女は境遇が全く逆だと感じていたのですが、どうも今の議論を踏まえると、ピアノ少年もバレエ少女も、図式は全く同じというわけですね。
【暴力のあり方、その変遷】
i-i: 先ほど、Kさんが、対外的な暴力が抑圧されたと指摘してましたが、今も時々、教師を刺したとか、生徒同士で刺したとか、ニュースで見ます。
ポニーテールK: たしかにそうです。しかしその暴力に至る経過を見ると、単純に誰かの言葉に傷ついて反射的に刺したというようなものではなく、外的暴力にはそれとして認知されにくい様々な情報の暴力が先行している。いまの学校では、刃物の持ち込みなどが徹底的に検査されて安全が図られている。それと同時に、少年法が改正されて他者に対する暴力が直ちに犯罪として処断される状況が作られていく。すると刺そうにも刺せない。そこで、ネットで、言葉で刺すわけです。
i-i: 言葉で刺すって言うのは、今のネット社会では顕著ですが、この作品では生の暴力の問題が取り上げられていました。カッター、彫刻刀、ハサミ・・とか、学校に持ち込める日常的な刃物を使って。私の学生時代も持ち物検査はよくありましたが、すり抜けることは簡単です。暴力は、Kさんが指摘されたように、対話を開く・・ことにもつながるかもしれませんが、自己を抹殺する行為にも見えます。
ポニーテールK: 物理的な暴力についてですが、私が中学で経験した校内暴力では、鉄パイプで職員室の備品を破壊したり、教師を殴ったりはあったけど、刺したりはしなかった。なぜ「刺す」ことになったのかと言えば、罵倒したり殴ったりの「暴力」が、その後徹底的に抑圧されたからです。たとえば校内を警官が巡回するとか、少年法が改正されて大人と同じように暴力行為が犯罪にされるとか。だから、暴力はかつてのようにポジティブなコミュニケーションのきっかけとなることができず、i-iさんがいうような、自己破滅と他者破滅を同時に引き起こすものになった。物理的暴力はこうしてあまりにもリスキーなものとなったので、暴力は携帯サイトでの誹謗として発動される。これはタイマンはって殴るとかよりはるかに威力がある。学校を攻撃するときは、教師のプライバシーを暴いたり、教師の写真を携帯サイトに上げて性的な噂を流すとか、そういうかたちをとる。処罰されないし。かつて校内暴力は学校への反抗、体制への反抗だった。それがいまでは、ありとあらゆる主体性を情報の力で潰すことへと向きを変えたわけです。
山内家: 「生徒vs学校」という図式が成り立たない時代になった、と。その点について、いささか大雑把ですが、次の対比ができると思います。まず「生徒vs学校」という図式の代表例として、尾崎豊の歌に「15の夜」というのがありましたよね。そこで尾崎が歌っていたのは、学校からの、支配からの「卒業」です。それは、学校という体制と「15歳」の個人との関係の話だったわけですよね。
i-i: 尾崎の頃は、詰め込み教育と受験受験の学校へ体制批判が最後に生き延びたころだったような・・・。管理・支配からの「自由」が夢想できたというか。
山内家:そうだったんですね。じゃあ最後の体制批判として80年代後半の尾崎「15歳」があるとして、それに対して、ここでは90年代半ばのエヴァ「14歳」を対比できると思うんです。90年代の「エヴァ=14歳」では、他者とのコミュニケーションが、軋轢として、悲劇として主題化されていました。「人類補完計画」というのは、そんな他者とのコミュニケーション不全を解消するユートピアとして考えられていましたよね。(もっとも、エヴァではそのユートピアは最後で否定されるわけですが。)
エヴァに代表されるように、他者とのコミュニケーションが神経質な問題となる時代になった。そこでは情報の領域で個人に対する暴力が振るわれる。僕の頃には、もうそうでした。「学校の窓を壊した」というのは、二つくらい上の先輩のやってたことです。反抗ではなく、むしろ先生に対する誹謗中傷として、例えば先生がつきあっている男性との内情が噂として流布されたりした。今では、それがネット上で、はるかに巨大な規模で、猛烈なスピードで展開されるのではないでしょうか。
その時学級会か何かでその先生が生徒を前に泣いたのですが、映画『14歳』の女教師いじめのシーンを観ていて、それを思い出しました。学校への反抗なんてものではなくて、完全に「先生いじめ」だったんだな、と。クラス全員が無言で先生だけが困っている、という映画でのシーンがとりわけ印象的でした。学級崩壊とも違う。クラス全員が、直接の実行犯でないにせよ、無言で先生と対峙している。そんな「先生いじめ」は、実行犯でない生徒まで共犯者にして、加害者意識を与えることになります。
ポニーテールK: しかも、クラスの生徒は先生に直接的な恨みはないんです。。
山内家: まさにそうです。映画『14歳』を観ていて。そんな罪意識が、ずるずると呼び戻されました。
Na+: なかなかあの状況で先生を助ける生徒も稀だと思いますがね・・・。
ポニーテールK: 間違いなく次にやられますね。
Na+: いじめの対象になりますね。
ポニーテールK:「あなたたち、先生にこんなことして恥ずかしくないの!」とか。
Na+: そんなことを言った生徒が、僕の友達に居ました。いじめられっ子になってしまいました。
フラミニ:この映画は、 現実の『14歳』についてリアリティはないのでけれど、「いじめ」に関してはリアリティを持った映画だったのかもしれませんね。
i-i: そうですね。で、話を戻して申し訳ないんですが、コミュニケーションと「いじめ」のことについてちょっと。尾崎の時代は教師から生徒へ一方的に言葉が投げられても許された時代です。だから生徒の暴力的な抵抗はコミュニケーションを開く手段になりえた。エヴァの時代は、教師がマスコミを通じた世間や父兄から完全包囲されて、教師は生徒と「平等」に「会話」することを当然のように要求された時代。そもそも会話する作業って「非対称」だし、通じないのが当たり前なのに、「平等」とか「通じ合う」ことが前提とされるから、それを求めて生徒側にはヒステリックな反応が起きるんじゃないでしょうか。生徒がますます教師に甘えるというか。教師に対するいじめも「甘え」ゆえだと思います。その意味では、学校から「卒業」できてない人がますます増えてるんじゃないかな。
【他者(または自分)を傷つける論理】
i-i: さきほどKさんがおっしゃってた「主体性つぶし」というのは、自分が構築しようとしている主体性が、まさに他者の欲望を背負ったものであり、それに耐えられなくなってありとあらゆる主体(性)をつぶすということですか?
ポニーテールK: ええと、つまり、生徒の主体性は、大人によって誘導され、推奨されているわけです。勉強とかピアノとか、バレエとか。でも同時にその方向に進んでも自分が生き生きと生きていけないことも大人社会から直接間接に教えられるわけです。楽しくない人生なんです。そういう意味で夢も希望もないんです。だから楽しそうに主体性を持って生き生きしているような人間の主体性を潰す。もしくは主体性を放棄しているように見えるだめな存在を「教育」し同時に挫折させる。いずれにしても、主体性の獲得、育ちの道筋を不可能にして、何かになろうとする努力の形式だけを無意味かつ無限に継続反復させる。それがいじめです。そしてそれは、いまの学校教育そのもののありかたでもある。
i-i: つまり、自分の主体性構築の欺瞞に耐えられなくなると同時に、自分に不可能なことを他者が実現しているとみなして、破壊するわけですね。
山内家: そこについて、i-iさんにお聞きしたいことが。先ほども「刺す」コミュニケーションが「他者のみならず自分を抹殺する」と指摘されてました。そこで「自分を抹殺されたから他者を抹殺する」という対外的な暴力が、他者のみならず、自分をも破壊するということについて、もうちょっと説明してもらえますか?
i-i: では、教師や親に向かう暴力を例にして。生徒は自分の欲望が親や教師の欲望を反映したものであり、それを否定されたとき(=二重に否定されたとき)、怒りの矛先を教師や親に向ける。「お前のいいなりになるもんか!」と。親や教師を刺して自分の解放を図る行為は、象徴世界の網の目でがんじがらめになった自分を解放する試みと読めます。ここで注意したいのは、生徒が二重に否定されたと受け止めた時点で、自分にはかけがえのない自分自身の欲望がどこかにあると想定してることです。
それが刺す瞬間に、刺した相手(親、教師)が自分を作ってきた欲望の源であることに気づく。相手を消すことは、親や教師に抵抗することで保ってきた想像上の「ほんとの自分」の足場を崩壊させることに繋がる。それは自己抹殺です。刺すことは、自己を抹殺することだと感じても、「無理心中」しないとリセットできない地平で、何度も刺しているんじゃないかと思いました。
友人に向かう暴力は、たとえばバレエ少女の場合。容姿、成績、経済的にも恵まれていない「みっちゃん」が対象でした。親や教師に拘束されていないように見える「みっちゃん」が主体を実現させているように見えて、ムカついたんじゃないでしょうか。もし刺していたら、みっちゃんを破壊するだけじゃなくて、彼女が実現してると思う何か(自分には手の届かない何か)を刺す行為なわけです。それは自己破壊にも繋がるんじゃないかと思います。
いずれの場合も、否定されている自分が、十分に否定されて抹殺されていないから、自分で自分の息の根を止めようとしてるように思えました。他者を刺すことによって。
ポニーテールK: 苦しくてたまらないから社会的に自殺する。
i-i: そうですね
フラミニ: 他者を指すこと、抹殺することで自分が主体性を獲得するという幻想を終わらせるといことですか?
i-i: そういう風に言い換えられるかもしれないですね。皮肉なんだけど、刺す一瞬だけ、主体性を獲得すると思うのかもしれない。その意味では、主体性を獲得するという幻想の中で全てが行われているのかも。
Na+: で、対外的に暴力を振るうという選択をしない生徒は、文字通り自殺する素振りを見せるのかもしれませんね(リストカットとか)。
i-i: 知り合いでリストカットを続けていた人がいましたが、「痛みを感じる間だけ、自分の中の汚れた血が流れる間だけ、(生きることが)ゆるされているような気がする」と、言ってました。
Na+: 僕の友人のリスカ経験者も、そんなことを言っていたような気がします。
i-i: 常習者のリストカットは、死ぬことが目的じゃなく、生きていることを確認し、生き延びるための手段のように思えます。誰かに気づいてほしいというメッセージでもあり、ギリギリのコミュニケーション手段であったと思う。
【二つの教師モデル】
ポニーテールK: 教師の話をしてもいいでしょうか。映画には二つの教師の類型が出てきました。生徒と向き合ってその心を理解しようとする女性教師と、外面的な管理教育をすすめる男性教師です。これ、日本の戦後教育を貫く二つの教師類型なんですよね。戦前の軍事教練を否定するところから生じた教育の自然主義と、その限界が必然的に作り出してしまった管理教育派です。文科系の女性の美術教師と体育会系の男性の体育教師といったところでしょうか。両方はいがみ合いながら、補完関係を形成していた。両者があってそれなりに学校教育の秩序が保たれていたんだけど、いまや両方とも機能不全に陥っている。皆さんはこの教師類型についてどう思いますか?
山内家: 自然主義派は生徒と向き合おうとする女教師、訓育派は、生徒を怒りながら「俺、間違ってないよな?」と頬を叩いていた彼ですね。
ポニーテールK: そうそう。
i-i: 教育の自然主義とは?
ポニーテールK: 教育とは外から教え込むものではなく、生徒のなかにあるものを引き出すこと、つまりeducationだという考え方です。ルソーです。
フラミニ: 自然主義派というのは子供の自主性を尊重とか無限の可能性を引き出すとかいうのものということですね。子供はもともと良いもので、それが正しく成長していないとすると、阻害してるやつらがいる、という発想。
ポニーテールK: 阻害してる奴らの代表が資本であり、自民党であり、文部省だ、というのが日教組の伝統的立場です。「日の丸」「君が代」を押し付けるから生徒が歪む、教師はその防波堤になるという。教師は外的な力の防壁になって、生徒の中にある自然、つまり畑を耕して、芽を出させ、それをのばすのです。いわゆるカルチャーです。
i-i: 自然主義には「自然=可能性」「素質」が前もって想像的に措定されているわけですね。想像と言えば、映画の中で、女教師が彼女の視点から想像しているものとしての子供・・が描かれてましたね。
フラミニ: 深津先生は「生徒と向き合う」「助ける」とさかんに言っているのですが映画では彼女が中学生のときに刺した先生とダブらせありましたしね。
山内家: 女教師の精神病院の先生は、そんな想像をしているなら教師をやめろ、と忠告していましたね。結局、女教師は、先生をやめず、むしろ復帰するわけですが。
i-i: 辞めなかったのは、ある種、救いにも思えました。「失敗」の積み重ねを通してしか、つかめないものもあるから。カウンセラー(=他者)が介入して、今の自分自身に向き合って、きちんと切断が入れば、辞めるか続けるかは彼女次第。同じ失敗の繰り返しになるだろうと言う予見を含んだ見方自体に、逆に教師に過度に何かを期待するまなざしを感じるんだけど。
それと・・「想像」って、この映画では2つのレベルがあって、カウンセラーが指摘した「14歳の頃の自分が教え子の中にいる、その子を救わなくちゃ・・」という想像(妄想?)は、きちんと切断してほしいと思うけど、コミュニケーションレベルで、相手と向き合う時に必要な「想像」は、不可欠なんじゃないかな。相手が誰であろうと関係を結んでいくとき、相手に対して「想像」を介入させずにつきあうなんて不可能だし。コミュニケーションって、一回一回の想像のぶつけあいでかろうじて成り立ってると思うから。
ポニーテールK: 自然主義派の教師が、寄り添えば寄り添うほど、向き合えば向き合うほど、生徒は彼女を憎悪するわけです。教師が想定する勝手な自然を、内面を押し付けてくるから。そうやって生徒の内面を支配したとしても、それに有効な育ちの可能性を提示することはできないのです。この自然主義派の路線を深津先生が歩むとすれば中途半端はだめで、もう徹底的にやるしかない。夜回り先生になるしかない。
【二つの教師モデルへの『14歳』のスタンス】
Na+: しかし映画に「夜回り先生」的な人は誰も登場しません。映画に登場していたのは、「生徒の心を理解したい教師」と「管理教育をしたい教師」でした。どっちも中途半端でしたね。
山内家:「どっちも中途半端」っていうのは、悪い意味で使っているのでしょうか?つまり夜回り先生になれよ!ということ?それとも、ほとんどの場合、中途半端でしかありえないということでしょうか?
Na+: どうせやるからには、徹底的に夜回り先生になれよ、です
ポニーテールK: 夜回り先生の場合は、生徒もやくざも、こいつはすごい、と思ってしまう。夜回り先生の主体性はあまりにも強固で、まったくぶれないのです。だから、主体なんて、と主体性を軽蔑していた生徒も、主体性に対する尊敬を取り戻してしまう。やくざに指潰されても生徒を救おうとするぐらいですから。
山内家: しかし教師全員を「夜回り先生」化するのは不可能でしょう。むしろ教師が、映画のように中途半端なあり方しかできない、っていう点に、映画の主張を感じたのですが。
Na+: まあ実際そうですよね。
i-i: みんな夜回り先生になったら気味悪いですね。でも、私が行ってた中学校は、毎日先生が中州を夜回りしてたな。あの当時はわかりやすくて、「不良」は、みんな柔道部に引き抜かれてた。
Na+: 僕の中学校は、バリバリの軍隊教育的なノリの体育教師が、竹刀をもって治安を維持していました。本気で怖かったです。でも、その教師が居なくなった途端に、荒れ放題になったと聞いています。
ポニーテールK: 管理も徹底すれば、主体性の病からは抜け出すことができます。それをやったのが「戸塚ヨットスクール」です。しかし「夜回り先生」にもなれず、「ヨットスクール」もどうか、という場合には、中途半端路線しかない。
フラミニ: 訓育派の先生も「生徒の目を見て注意できない」って謝ってましたしね。
山内家: 「自然主義も訓育派もどちらも現状では機能していない」とこの映画は言っているのでしょう。自然主義派である女性教師は、生徒とのコミュニケーションの中で「生徒の自発性」なるものを引き出していくはずですが、逆に「先生いじめ」にあう。訓育派の男教師は、自らを強制的に訓育することで訓育モデルに適合しようとするけれども、いっぱいいっぱいなので、自分で自分の頬を叩いて自らを訓育する。
Kさんの言う二つの事例は、極論として、ユートピアめいているんだけれども、でもそれを提示することを、あの映画はしません。この映画が、教師の理想像を提示するのではなくて、中途半端な像として提示したのは、教師をめぐる社会的な了解というか信仰が、もはや成立しなくなった現状があるからでしょう。先生自身が、「先生」といわれるあり方に戸惑っているというか。先生を刺した過去の自分を現在の14歳に見出そうとする女教師と訓育モデルが自己への暴力となっている男教師は、この二つの教師モデルの限界を典型的に示していると思います。
ポニーテールK: オレも先生いやだし。
i-i: わかる。
ポニーテールK: まじめに書くと、自分もやっぱ中途半端なわけですよ。でもそれは教師の罪じゃない。社会自体が生徒の育ちの可能性を困難にしているわけですよ。このまえ映画の『やまびこ学級』をみたけど、敗戦後の日本は今とは全然状況が違うのよ。そこで教師は、農村の父母から「先生様」と呼ばれてるんですよ。一人の生徒が貧しくて修学旅行に行けないから、授業休んで学級全員で間伐のアルバイトするんです。教育や知識は無条件に善であり、可能性なのです。がんばればがんばるほど、無条件に報われる。
でも現在では、教師だけがどんなにがんばってもタカが知れてる。敵は自分も含めた社会全部なんです。学校に通って一生懸命勉強すれば才能を開花させて素晴らしい人生が待っているって、自分で信じてもいない嘘ついて生徒をだましているわけです。社会がこぞって口裏あわせて生徒をだましているんですよ。この商品買えば幸せになりますという消費社会のメッセージの方がよっぽどましです。そして生徒はその嘘を見抜いている。教師はもはや、子供を教え導くことが原理的にできないんです。だから教師は問題が起こっても、悩みながら中途半端に場当たり的に対応するしかない。自分に使える資源を使って、嘘つきながら、それなりにがんばるわけですよ。
この映画に出てくる大人たちの最大の罪は、誰一人、自分の人生を楽しんでいないということなんです。大人になれば自分のように楽しい毎日が待っているっていうことを、誰一人生徒に伝えきれていないんです。自分の人生を楽しむにはボーッとしていてもだめで、努力と技術が必要であり、その技術を習得するとこんなに世界は面白くなるんだ、ということを示しえていない。教師は教育委員会のくだらない研修に参加している場合ではなくて、どうすれば自分の人生の快楽を追求できるかをまずは真剣に考えるべきです。自分が抑圧されていれば、必ずその抑圧を生徒に伝えることになるんです。自分が生徒の害悪にならないようにする最大のポイントは、教師が自分自身を解放すること、つまり自分をまっとうに教育できるということなんですよ。
山内家: しかし現実には、マスコミなんかによって、たいていは教師のせいにされてしまいますよね。その点この映画は、「教師の罪ではない」と考えているのではないでしょうか。映画には、ビーカーで火を燃やしていた女教師の噂をピアノ少年のお母さん達が話しているシーンがあったかと思います。そこでの噂話の醜悪な印象には、そう思わせるものがありました。
【「最後のせりふ」と「最後のシーン」を巡って】
i-i: 「先生」という言葉だけが、生徒と教師の境界を示す言葉なんでしょうけれど、教師のモデルは、2人だけじゃなかったですよね。14歳の時、先生が何気なく言った言葉に傷ついてピアノを諦めたピアノ教師がいました。彼はラストに近い場面で教え子に向かって「大人は自分が14歳だった頃のことなんて思い出せないんだよ!14歳に本気で向き合おうとする大人なんていない!それでも、お前が本気で向き合ってくるなら、つきあう」みたいな台詞を叩きつけていましたが、結局、その台詞しか残らないのかもしれないと思いました。それは、自然主義的な教育とも違う。あの言葉は、少年の転移を切断すると同時に、過去の自分と決別する言葉に聞こえました
山内家: 最後のピアノ教師のセリフ、どうでしたか?僕は、(自分の過去を含めた)14歳と大人は永遠の対立にある、融和可能性はない、っていう宣言に見えました。この映画が全編を通じていってきたことを、言葉にしてまとめたって印象です。「わかってはあげられない」ということをわかっている大人はいるぞ、と。(自分の過去含めた)14歳に対する、精一杯の寄り添い方が、そういう仕方なのだ、と。
ポニーテールK: でもさあ、そんな深刻な断絶なんかあるのかな。ある意味では大人も14歳も同じだよ。ピアノ少年もピアノ教師も全然同じじゃん。「ピアノ」っていうヘンな可能性の周りをめぐって、どうやって生きていったらいいのか分からなくて日常の中で悶々してるじゃん。「わかってあげられない」とか絶叫しているけど、客観的に見たらまったく同じ存在。私も41歳だけど、これからどうやって生きていけば素晴らしい人生が待っているのかなんて、全然分からない。14歳も「切れる」けど、大人だって駅で駅員殴ったり、「可能性」を求めて痴漢したりしてる。同じだよ。十分わかりあえる。
i-i: ピアノ教師は、教え子の殺意を昔の自分のそれと重ねて察知しながらも、逃げずに少年にぶつかってましたね。真剣勝負。教師と生徒という立場なんて吹っ飛ばして、もうメチャメチャでした。それまで自分を殺して測量士をし、能面みたいな顔してピアノ教師をしていた男がです。大人だって不器用でも手探りで必死に生きてることを示すことで、少年に伝わるものがあったように思います。大人に何かを求めることを諦めることも含めて。
Na+: 教師の心構えが中途半端なのはもう仕方がないとして、それに生徒が納得するかどうかが問題ですね。だからあの測量士/ピアノ教師のように、「俺、半端だけど頑張る!」と、生徒にクサイ台詞を言って聞かせる必要はあるかもしれません。
フラミニ: 「融和は不可能なことは理解しているけれど向き合う」という形で、以前14歳だった自分が少し救われる。そんな風にピアノ教師と深津先生は思っているのだ、と僕は思いました。だから典型的な自然主義の教師モデルとも違うのではないか、と。
i-i: 向き合えるという可能性が、想像されているということですか?
フラミニ: そうですね、それ自体できないことはうすうす分かっているのだけれども、「向き合えない」と開き直ることはできないでしょう。
山内家: そして休職したにもかかわらず、最後復職して再び教室へ・・・。このラストの教室に入っていくシーンは、「あぁ・・」という感じでした。「やっぱり戻っちゃうんだ…」という痛々しい印象です。間違いを繰り返すんだろうな、と。そこに、i-iさんが先ほど言われたような救いを、僕はあまり見出せませんでした。
i-i: 深津先生が復帰するとき、確かに最初に刺された女性教師の後ろ姿を彷彿としました。反復かな・・?と。それだと救いはないですね。死の欲動・・っていうか反復強迫は、逃れがたいものですし、生徒たちがその巻き添えを食うのは酷です。でも彼女は、カウンセラーから「14歳のあなたはあそこにはいないのよ」と言われている。いったん切断が入ってる。反復に見えるけど、何かが違うんじゃないかとも思いました。絶望という名の彼岸にある可能性かもしれないですが。誰もが徹底して絶望した上で見出せるものというか。
ポニーテールK: どうなんでしょう。私はラストのシーン(女教師が復職し、再び教室に入ってゆくシーン)にはまったく共感できなかった。
i-i: 共感はできない。でも、あの映画は共感なんて最初から求めてないんじゃないかな。
ポニーテールK: あまりにも、生徒に自分を投影しているわけです。人間所詮、自己投影からは逃れられないけど、さすがにこれはないだろうと。生徒と向き合う前にまず自分と向き合うべき。そうでないと、とてつもない支配圧力に生徒は曝される。生徒は自分じゃないのですよ。
Na+: 最初から最後まで、あの女教師にはイライラさせられました。
ポニーテールK: 生徒を救済することと、自分を救済することとがわけられていない。これは教師としては、絶対ヤバいのです。
Na+: そう思います。
山内家: ピアノ少年と対決したピアノ教師と、女教師の復帰、果たして同じものでしょうか?ピアノ教師について、どうでしょう?
i-i: この作品は14歳を経てきた大人たちが、どういう風にトラウマを乗り越えていくかを描いているので、あのピアノ教師は、現在の自分に「向き合った」と思います。女教師は、カウンセラーの先生から、「あなたは教師になって14歳だった昔の自分を救いに行こうとしてるだけ。でも、そこにあなたはいないのよ。そういうつもりで教師やってるなら辞めなさい」と言われる。彼女にとって「切断」になったんじゃないかとは思う。だからといって二人ともそう簡単に切り替わるものではないだろうけど。
ポニーテールK: 基本的にピアノ教師と深津先生は同じ類型ではないかと。カウンセラーの先生は、その辺よく見ている。
i-i: そう思います。
ポニーテールK: カウンセラーが深津先生に辞職を勧告したのは正しい。
山内家: ではピアノ教師であれば、少年との対決後、どうするでしょうか?ピアノ教師のその後について映画では描かれませんでしたが、あくまで推測の域を出ませんが。僕は、ピアノ教師と女教師には、ちょっと違いがあるような気がしたんです。だから女教師は復職したけれども、ピアノ教師/測量技師はピアノ教師をやめるんじゃないか、と。
ポニーテールK: どうかな。
Na+: ピアノ教師は、あのあと夜回り先生になれる可能性があると思ったのですが。
ポニーテールK: 私は、彼の本職の方を辞めるような気がする。
山内家: 測量技師の方を、ですか。で、「夜回り先生」に?
ポニーテールK:「夜回り先生」にはなれない。人間の格が違う。測量技師を辞めて、インドへ放浪の旅に出るとか。
i-i: そんなに楽観的な男には見えなかったけど。第一、放浪って逃避ですよね。まだ逃避するの?
山内家: 放浪のたびかぁ。僕は、普通に測量技師やってると思いましたけれども。
i-i: うん、辞めない気がする。というか、続けるか辞めるかって、「切断」ができた後には、関係ないと思うかな。もし続けるとしても、測量士の仕事を選択し、引き受けなおす・・という、そんな覚悟ができる気がする。
山内家: で、ピアノ教師は、もうしないと思うんです。あくまで憶測ですけれども。
i-i: 14歳でピアノを諦めた男は、ピアノ教師をすることで、ピアノと辛うじて繋がっていた。少年にピアノを教えることは、(少年の)母親の欲望を満たす手伝いでもある。母の目ばかり気にしている少年に苛立ちを感じながら、その母の片棒を担ぐという矛盾した位置にいますよね。でも、最後にピアノ教師は、「切断」ができたと思うから、ピアノ教師を続けるとしても、これまでと違うあり方ができるかも。辞めるかどうかより、どのようにあるかが問題な気がします。
Na+: ピアノの弦も切ってましたしね。
ポニーテールK: でもね、彼のトラウマの一番根本にあるのは、ピアノを続けるためにすごい努力を積み重ねてきたけど、結局妥協して測量技師になってしまった、ってとこなんですよ。だからね、中途半端にピアノやっているやつ見るとむかつくんですよ。それをね、いやというほど、生徒を通じて自覚してしまった。もし彼がこれから技師を続けられるとしたら、彼はもはや幻想の14歳ではなくなって、本当に大人として成熟するということですよ。ほんとに平凡な毎日を、それでもその中にいろいろ楽しみを見つけて、反復する覚悟をするということです。そしてそのなかで、生活の余裕を身につけて、助けてあげられる人にほんの少しだけ手を差し伸べることのできる「大人」になるということです。彼にできるかな。僕にはできない。
i-i: それができたんじゃないかと思えたんですが。殺される前に「殺す」覚悟で玄関の前に立った時に。
フラミニ: 彼はようやく「大人」になれたと。
山内家: どうでしょう。Kさんの言うような意味での「大人」にはなれてないのだと思います。
i-i: 映画が終わった先のストーリーまで、わからないな。人生なんて偶然の積み重ねだし。
ポニーテールK: 魚屋とか、文房具屋とか、その辺のサラリーマンとか、自分の親とか、そういう存在です。でも、できるかも。彼の深津先生への最後の態度(川辺で深津先生と一緒に薪を燃やすシーン)には、そういう予感もあった。距離を保って見守るというか。そういう「大人」になりたいな、ぼくも。
(2008年4月某日)


