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ドネルモ・トーク・アラウンド: 「チェルフィッチュ」‐「フリータイム」とか

「ドネルモ・トーク・アラウンド」はweb上で開催する座談会です。毎回のテーマに、注目の公演や映画などを取り上げていく予定です。

今回は、4月初めに北九州で公演されたチェルフィッチュの「フリータイム」(2008/4/4-5@北九州芸術劇場)をとりあげます。演劇界のみならず多方面で注目を集めるチェルフィッチュ。そして派遣労働の女性を独特の観点から取り上げた「フリータイム」。パネラーが、「フリータイム」の話題を中心に、チェルフィッチュを巡って、あれやこれやと語っております。それでは、どーぞ。

【チェルフィッチュについて】
フルボッコ: 今日はよろしくおねがいします。じゃあはじめに、チェルフィッチュについて簡単に紹介しておきましょう。

チェルフィッチュは作・演出の岡田利規さんの主宰する演劇ユニットとされています。97年から横浜を中心に活動。独特な言語センスと、だらだらした俳優の振りが話題に。といっても、個人的には、最初は演劇というよりもコンテンポラリー・ダンス方面という狭いサークルで話題になっていたような印象があります。

そんな中、2004年の『三月の5日間』が岸田戯曲賞を受賞。これによって、一気にブレイクした感があります。とりわけ演劇・文壇方面がその魅力に気づいた、というところでしょうか。最近ではいろんな雑誌で岡田さんをみかけます。受賞後の岡田さんは、「三月の5日間」のノベライズの他、小説も書いていますね。

今回の「フリータイム」は、そんな仕方で知名度の上がった後での、最初の岡田さん=チェルフィッチュ作品ということになります。チェルフィッチュとしては2年半ぶりの新作。今年3月に東京で初演、4月の北九州公演の後、5月以降はブリュッセル、ウィーン、パリと海外での公演が予定されているとのこと。

【本作「フリータイム」について】
フルボッコ:続いて「フリータイム」という作品について。簡単にまとめておきましょう。

前作「三月〜」は澁谷が舞台でしたが、「フリータイム」はより匿名的・限定的で、どこかのファミレスが舞台。今回は舞台装置がきちんとあって、ファミレスのテーブルと椅子と思しきものが、埋まっている?感じに見えましたね。で、そのファミレスで、朝、職場に出勤する前、30分だけの自分の時間(=フリータイム)を過ごしている派遣の女性と、たまたまある日の朝、その女性の近くにいた人々。この30分を巡って、伝聞調で、異なる視点からあれこれと、推測で語られる芝居でした。

派遣の女性は30分を「日記」を書いて過ごしている。だけれども、その「日記」はノートにぐるぐると円を描き続けるというものでした。そういう30分のフリータイムについて、派遣の女性やその取り巻きが、あることないこと織り交ぜながら、ぐだぐだ喋ります。そんな中、おしまいの方で、派遣の女性は言う。この時間は30分より短くても長くてもいけない。「30分で大丈夫。」そんな朝のフリータイムが「永遠」とつながっていることを私は知っている。そしてそれが「希望」にもなるのだ、と。

「希望」は、あの舞台で語られた言葉の中で最も強い言葉だったかと思うのですが、極めてプライベートでかつ社会システムに取り込まれている出勤前の30分が「希望」となりうる、というところが今回の「フリータイム」のテーマだったように僕は思います。

【前作「三月の5日間」と比べて】

フルボッコ:さて、まず前作の「三月の5日間」と比べてみて、いかがでしたか?一般的には、「前作のほうが好き、面白かった」という意見が多いようです。まず僕の印象を簡単に。前作は日常の中で、自分以外の世界がどのように意識されるのか、捉えられるか、という話でした。本作は、自分の内的な世界がどのように捉えられるか、という話。前作と本作は、ベクトルが全く逆方向の、ある意味連作のようにも思えました。

スイカ人間: 前作の方がインパクトはあったように思います、僕は。前作には中心がまったくなかったので。それが斬新な気がしました。今回は、普通のストーリーが設定されていたように思います。

フルボッコ:「中心」って、ストーリーのことですか。

スイカ人間: まあ中心人物とか、話の連続性とか、場の設定とかに中心があったのかな、と。前作はその大きな世界と自分という中心軸以外にもいろいろ周縁的なストーリーがぽこぽこと出てきていた感じでした。それに比べて、今作はわりと私小説的なテイストが強かったように思います。「ポップな私小説」という感じです。日記をつけようと思うけれども、いろいろな想念があふれていたので、まとまらない、と。そこがとても私小説的なような気がします。

i-i: 前作は、DVDでしか見ていないのですが、設定も「イラク戦争」開始前の、あの「三月の5日間」ということで、インパクトは大きかったですよね。日常を政治化させる・・という意味では、どちらも共通点があったと思います。

【うんこの政治的な使い方−『三月の5日間』について】

フルボッコ:「日常を政治化」って、どういうことでしょう?

i-i: 誤解を招くかもしれないけれど、『三月の5日間』は「うんこのような作品」だと思いました。これを「日常の政治化」とつなげると説明が長くなりますが・・いいでしょうか?

うんこって、「くそ〜っ!」「うんこったれ!」って感じで、嫌悪を伴って他者(外部)に向けて吐き出される言葉です。でも、<うんこ>って、もとは自分の内部にあるもので、それを汚いもの、自分の外部のものとして顔を背けて排除するようになるのは、(フロイトが言うように)自分と他人の境界をつける成長を経てからです。それ以前の自他の境界がつかない時期、幼子にとってうんこは自分の外部にある汚いものではなく、自ら母に差し出す贈り物でさえある。

ここで、あの作品が設定された時期を考えると、2003年の3月当時は、戦争開始か回避か、世界中が「決断」を見守っていた時期。どういう結果が生まれるのか見えない混沌の中で、デッドラインが刻々と迫ると同時に、それまでの時間が止まったような、それでいてやっぱり日常の時間はだらりと流れているような、不思議な時間が流れていました。

さらに言うと、イラク戦争のきっかけにもつながる9・11同時多発テロ以来、私たちは、敵とは何か、どこにいるのか(←外にいるのか内にいるのか)、外と内ってなんなのか自/他の区別がわからない世界に既に放り込まれていたといえます。同時に、グローバル化された世界において日本という先進国で安穏と日常を送ること自体、世界の誰かを犠牲にすることに加担するのと引き換えであることに気づかされた。

外部と内部の境界は不鮮明になるだけでなく、そうした区分け自体が失効し、混沌の砂嵐に吹かれた—−。
そんな時期だったと思うんです。渦中・・というか、誰もがメタレベルに立ってものをいうことなどできなかった時期。 (砂嵐に目をつぶった人の方が多かったのかもしれないし、テレビは連日ヒステリックに情報を流していたけど・・)

その混沌が極まった時期に、出会ったばかりの男女が渋谷のラブホでセックス三昧。そのエピソードが本人?と他人?の口を通してゆるゆる延々と伝聞で語られる。日時も昼夜も混沌とした時空で男女がセックスして交り/混じり合った・・っていう、正直どうでもいい「糞(うんこ)」みたいな話を、自他の区分けが融解した人(役者)たちが、繰り返し伝えて(=贈って)いく。

それを見る観客は、劇中の「誰か」(←1人にしてすでに複数)に共感できるわけではないので唖然としつつ、でもだからこそ、わけのわからない世界に巻き込まれる。で、言えるのは、その時点では、男女のセックス話は、「幼児のうんこ」と同じで、嫌悪をもって見られてはいないことです。

それが最終日の5日目に、男は振り返って「ウンコみたいなセックス」と漏らす。そして芝居のラストに近いシーンで、ラブホを出た女性は、しゃがんでウンコしてる浮浪者を見て犬と勘違いした後に、嘔吐する。あの嘔吐は、勘違いしてしまった自分を恥じただけじゃない気がします。それまでのセックス三昧の日々が、つまり自分にとって親密だったものが自分の中で受け入れ難い<不気味なもの>・・・になった瞬間だと思う。

それは世界中が平和を祈った時期に、部屋にこもって世界を遮断してセックスしたことに対する自己嫌悪だと、倫理的・政治的解釈もできると同時に、そんな教条的なレベルなんて軽く越えたところで、私たちに何かを突きつけてくる場面だと思うんです。眉間にしわ寄せて政治的な言葉を操らなくても・・。

芝居は、閃光の中、男女が互いに別方向に分かれて歩くところで終わります。それまでの混沌の時空を切り裂く一瞬の閃光は、戦闘開始の爆撃光のように見えました。閃光が切断を入れ、「これで『三月の5日間』を終わります」の台詞。・・ライトが点灯し観客は現実の世界に引き戻される。

ここで気づくのは、切断された地点にいる私たちは、必ずしもメタレベルから、この芝居を他人事のようには語れないこと。実は、この現実世界こそ、いまだに戦争状態が終わっていない混沌の世界、ウンコまみれであるってことです。

私たちの日常は、混沌の中でセックス三昧してる男女となんら変わらないことを、この芝居は、言葉を通してではなく、言葉を獲得する端境期の幼児、すなわち自他の境界があるかないかの<あわい>の地点から、ふっと垣間見せているように思いました。チェルフィッチュは、劇団の名前が「セルフ」の幼児語であることから、「セルフ」が成立する端境期の状態を想像させますが、その<あわい>の状態だからこそ見えてくるものがあり、それが私たちに投げられた(=贈られた)というか、そんな気がしました。消化(=解釈)されずに排出されたウンコを贈られたのは、観客だったと思うんです。

フルボッコ: 「あの5日間−渋谷でのセックス−体内のうんち的なもの」という連関で捉えてみると、切断を経て、それらが耐え切れないもの、受け入れがたいものとなったから、最後に排除された、と。i-iさんのお話を聞いてると、その嘔吐の原因が、人間を犬と見間違えてたことに留まらず、戦争なり世界に対する意識から生じてきたもののようにも思えますね。

【不自由と自由】

フルボッコ: では、「フリータイム」での政治性は、どういう点に?

i-i: ひとつは「自由」と「不自由」・・について、かな。自由は不自由さ故に獲得できるものであると同時に、それ故に不自由さを間逃れない。そのアポリアが、現代社会の問題と重ねられて、派遣女性をめぐるエピソードを通して浮かび上がっているように思います。

『フリータイム』で、派遣女性が唯一楽しみにしているわずか30分のフリータイム。それは家と職場を繋ぐ<間>であると同時に、切断する<間>・・と言えます。家族や職場における役割・拘束から解かれたその30分は、彼女を「自由」にする。と同時に、彼女は30分という決められた時間を突破しないという意味で、縛られてもいる。さらにいうと、「ファミリー」レストランっていう空間の中で、毎度同じ役割を演じてもいる。

とにかく、毎日反復される30分のフリータイムの中で、彼女は不自由さの中の自由を享受してる。逆にいうと、不自由さがなくて、すべてが「自由」になるって、とても不自由なことだと思うんですね。

フルボッコ: 30分以上でもいいかな、って思いながら、やっぱり30分ないに留まるのも、そのことを示唆しているのでしょう。

elanvital: たまたま電車までに時間が出来てしまって寛ぐだけで、まったく違う朝になってしまい、考えなくていいことを考えてしまうような怖い気持ちになるからできないんです。人のために時間をさくのが労働っていってたじゃないですか。だから本当に自分だけのためにってこだわりを感じたりします。

フルボッコ:ルーチンであるが故の安心感や自由さっていうのがあるというわけですね。

i-i: うん。縛りでもあるけど、守られてもいる。フリータイムの時間を延々と引き延ばしても、どこまで引き延ばせば自由なのか・・それは強迫神経症的な無限地獄につながると思うんです。不自由なスパイラルに入っていく。それは派遣女性のグルグルの日記にもつながる気がする。

【グルグルと妄想する切実さ】

i-i: 派遣女性が延々と書いてる「グルグルの日記」について。
私たちは日記を、言葉で書くことが多いと思うんですが、彼女は言葉では書けなくて、ひたすらグルグル・・あれって、一見、自由に見えて、限りなく不自由な円環にも見えます。

フルボッコ:劇では日記を言葉で書くのをやめて、グルグルにした経緯も語られてましたね。日記をつける理由はといえば、自分が何を考えていたのか思い出すためだ。でも、言葉にしたら、うまく表現できてないように思った。書いて思い出すのであれば、つまり書くという行為が補助なのであれば、別に言葉じゃなくてもいいじゃないか。だから自分にだけわかる「言葉=記号」で書いてもいいんじゃないか、と。そんな感じで、言葉で書くことをやめたって言ってたように思います。

i-i: 自分だけにわかる記号・・って、他者との関係を切ってるということでもありますよね。言葉にしたら、うまくまとまらない・・って言うのは、言葉の不自由さを示していると思うのですが、その一方で、代替としてグルグルが出てきて、グルグルを書く行為が延々続く。円環運動って、そのグルグルは拡散して開かれると同時に、どん詰まりって言うか、一見するとどこにも繋がらず閉じてもいく。すごく不自由でもあると思います。本人にとっては、それも含めて解放なのかもしれないけれど。

フルボッコ: そうなんですよね。グルグルは閉じていくんですよ。

i-i: でも、それじゃ、「自由」ってなんだろう・・と、ふと考えさせられるというか。

フルボッコ: その点について、僕は感銘を受けてしまいました。グルグルしながら派遣女性が思い出していたのは、昨晩のことですよね。思い出すための補助として「日記(言葉→グルグル)」がある。そこで思い出されるのは「昨晩、男性と食事して、別れて、終電に乗り遅れそうになって、走って、でも間に合って、そしたらベンチにおっさんが寝ていて、それが自分のおじいちゃんに似ていて、それを食事した男性にメールして・・・」云々。

でも後半に、「男性と食事したっていうの、嘘です」って、明らかにされたでしょう?つまり、ぐるぐるしながら思い出していることは、必ずしも事実でなくて、イメージ化されている。言葉だったら、対象化=反省が加わって、そんなことはなかったかもしれないのに。だからグルグルは、自閉的にイメージの領域へ逃避することも意味してるんじゃないかな、と思ったんです。

i-i: おもしろいですね。自分の都合よいように・・閉じていくと?

フルボッコ: どこまで都合よくいくかは、よくわからないとしても、30分のフリータイムで、彼女が見つけた永遠っていうのは、自己のイメージに埋没する時間だった、のかな、と。そういう領域が確保されるのが、自由と不自由さの境目みたいなフリータイムなのでしょう。

elanvital: グルグルだと、どこで終わっても文章と違って全体(永遠=自由)なのかもしれない。

スイカ人間:でも劇の中で、グルグルも一種のメッセージとして、横の人には見られてしまいます。彼女の言う永遠は、客席から見ても、かなり妄想的に見えました。

フルボッコ: だから「妄想」なんですよ。後半の「男の人がいるの、嘘です」っていうのが、それを暴露してたんです。でも、そんな「妄想」の時間が「自由」のイメージと結びつく。今回のチェルフィッチュが提示する「自由」のイメージは、そういうものなんだと思うんです。

私達の「自由」は、そういう制約の中でかろうじてアクチュアリティを持つ。旧来の演劇であれば、舞台の俳優が喜んだり悲しんだりして、観客はそれに共感して…という図式でしょう?でも、そこで提示されるヒューマニズムに根ざした自由のイメージに、少なくとも僕はアクチュアリティを感じない。その点チェルフィッチュは、現在アクチュアルな「自由」のイメージは何なのか?という問題を引き受けているように思います。で、「フリータイム」が出してきた自由のイメージの切実さに、僕は感銘を受けてしまったわけです。

i-i:フルボッコさんが指摘された「嘘」と「妄想」についてちょっと。「嘘」であると本人に自覚がある場合、それは「妄想」と呼べないのではないでしょうか。もちろん、日記の意味内容がわからない他人の目から見れば、妄想に浸ってるようにしかみえないでしょうけれど。それと、フルボッコさんは、言葉だと「対象化=反省」が加わると指摘されましたが、反省ってreflectionですよね。鏡にうつる「反射」とも繋がりますが、自分で自分を省みるとき、そこにはグルグルの作業を逃れられない可能性も生じると思います。つまり、言葉は、周りの人が冷たい目でみているグルグルと実は同根だということを逆照射してる気がするんです、あのグルグル日記が。

フルボッコ:たしかに「妄想」を反省なき没入という意味あいが強いので、不適切だったかもしれません。僕がここで言いたかったのはこういうことです。「これって私だけの妄想かも」と自覚しながらも、でもそうせざるをえない。しかし「妄想かも」という予感を伴いながらも、それでもまだ「妄想」できる領域・時間はかろうじて保たれている、フリータイムの中に。そんな屈折した自由の可能性が扱われているように思った、ということでした。

【チェルフィッチュ的な伝聞】

i-i: 演劇について素人なので、観客の視点からの感想ですが、チェルフィッチュ的な演劇の話がでたので、それについて・・。おそらく一般的に理解されてる「演じる」ってことは、演じることによって何かを表象することにつながります。そこでは表象の対象となる「何か」がまず「あって」、それを「表象する」というプロセスが前提とされる。それが「いわゆる」演劇のシステムというかお約束。で、お約束の中で観客は表象されたものの中に「感情移入」する。そうやって「演劇の前提」つまり「これは表象されたものである」ということを一旦「忘れる」ことを受け入れる――これが演劇の一般的なシステムだと思うんですね。

だけどチェルフィッチュの作品は、「表象されたものであること、演じていること」を繰り返し観客に思い出させる。同時に、いったい「表象するとは何か」「演じるとは何か」ということについての一般的な理解を、壊していく。もっと言うと、「何か」が「ある」とはどういうことなのかということを問いかける。

たとえば劇中で役者が演じている「誰か」が誰なのか混乱させる仕組みになっているところがそうです。複数の役者が、「私」という言葉を用いて、同人物と想定される人物について台詞を語るので、「私」とは誰か、何なのか、空中分解し始める。主語で統率されるはずの台詞が、ぎこちなくなって、脱臼される。

フルボッコ: その点について、今回は特に助詞の使い方に、わざとらしいほどに、意識的でしたね。 今からフリータイム「が」、「を」、はじめます、はじまります…みたいに。

i-i: そうですよね。なんども言い直して、反復させて・・・。
言葉って 口をついて出てくる。自分(の意識)ではコントロールできないところがあって、日常生活では、そういう言い直し結構やってるからリアリティあるんだけど、あの過剰さは、リアリティの次元を超えてますよね。「今から『フリータイム』が、を、始めます。始まります」みたいな台詞は、始まりを宣言すると同時に、芝居が、どこから始まっているのか、演技と非演技の境界を溶解させるような気もしました。

elanvital: 助詞って匿名性を加速させるよね。誰が主語なのかとかわからなくなりません?

i-i: うん。誰が主語なのかというか、主語と目的語、主体と客体がわからなくなるって言うか。

elanvital: 今からフリータイムが、を、に、はじめます、はじまりますって始め方も、ノートのぐるぐるみたい。わたしから見ると、文章と違って途中だとか終わりだとかないものに、ぐるぐる日記は感じるのです。だからお客が入る前からやってたけど、一応「ここからスタート」っていう例の始まり方をするのかなって。

テンソルくん: 休憩時間に入るときも「いまから休憩時間です」みたいなことを、セリフなのかなんなのか曖昧なまま言ってましたね。

スイカ人間:劇自体がダラダラとしているから、宣言しないと始まったり終わったりできないとか。

i-i:と同時に、繰り返しになるけど「舞台で演技する」っていう演劇のシステムを、すごく意識化させる芝居だとあらためて思いました。で、おもしろいのは、演技してることを意識させると、「これは演技なんだ」と観客は冷静な立場から芝居を観ると思われそうだけど、実際は、演技だとわかっているが故に、ますますその虚構の形式に巻き込まれてる。そんな演劇メディアのメカニズムを肌で感じて面白かったです。

フルボッコ:チェルフィッチュでは、 いわゆる古典的な演劇、つまり劇中人物に感情移入するという図式は放棄されてますね。チェルフィッチュの舞台にあるのは、誰かが誰かについて言及して、その誰かが匿名のまま言及されている事態が延々と展開する。助詞の執拗な組み換えや、何人もが同一主体について言及するスタイルは、語る主体がバラバラだ、という点もありますが、そもそもこの舞台は「芝居である」「誰かが誰かについて語っている舞台である」っていう建前を意識させるように思いました。

【「フリータイム」の描く「内面」】

テンソルくん: 何度も語られるエピソードが多かった点で、誰のことを言っている(誰の体験)かほとんど説明がないので、それを探ろうとする際は、その繰り返されたエピソードだけが手がかりだった気がします。繰り返されてるのは、例えば死んだおじいちゃんに似てるとかそういうエピソードです。誰のことを言っているかいちいち考えるのが、見ている途中で煩わしくなったので、誰の話でもいいやと開き直りましたが。

フルボッコ: チェルフィッチュの舞台では、伝聞で語られたエピソードによって、登場人物も形成されると思うのですが、今回の舞台では、そういう伝聞形式で、「派遣の女性」を描こうとしてましあね。そこが、今までのチェルフィッチュと違う点だと思います。

つまりこれまでのチェルフィッチュでは、登場人物は内面をもたないものとして、描かれてきたように思うのです。でも、本作は、「派遣の女性」の内面を、あれこれと憶測を交えて、語ってましたよね。ウェイトレスさんが、「彼女はきっとこう思ってるんですよ」とか言って。僕が新鮮だったのは、そんなチェルフィッチュ的な仕方で内面を語ることができるんだ、ということでした。語る、といっても、従来の意味で語っているわけではなくて、「内面を取扱う」とでも言ったほうがいいかと思うのですが。

i-i: 私は、そこは、内面を語るというより、騙る・・暴力性を読みました。内面って言うのは、「きっとこう思ってるんですよ」っていう形で語られるものでしかない。その暴力性を浮き彫りにしている気がしました。

テンソルくん:「 三月の5日間」はチェルフィッチュ形式全開の作品だったのかなと思いました。逆の言い方をすると、チェルフィッチュ度が薄まった作品が「フリータイム」というか。

フルボッコ:前作よりも本作のほうがチェルフィッチュ度が低いっていうのも、本作のテーマがやっぱり人の内面にあったからだ、と僕なんかは思います。i-iさんの暴力性の指摘はもっともですが、そんな暴力性を伴う仕方でしか、内面は取扱うことができないし、もっといえば「希望」のイメージも提示しえないように感じられます。

そこには自分自身ですら、自己の内面を「多分こう思ってるんですよ」という仕方でしか語ることができない、という認識があるんでしょう。「グルグルやっている自分」も対象化されるときには「他人」であって、そこで感じられている何かしらの「希望」を掬い出すためには、隣で好奇のまなざしを向けてくる男性達と同様の暴力を伴う仕方しかない。そういう内面の扱い方にも、「役者が登場人物の内面を表現する」という図式(演劇観)との決定的な断絶が感じられますね。
【2008年4月某日】

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