
【ドネルモでは、先日のチェルフィッチュ『フリータイム』(@北九州芸術劇場.4/4‐5)を巡って、座談会を企画しました(4/20)。その模様は近日中にアップ予定です。それに先立ち、座談会に参加できなかったライターからレビューの投稿がありました。以下に掲載いたします。】
自分自身の生活秩序を自ら作り出す能力として自由を定義するならば、チェルフィッチュ「フリータイム」で描き出された「自由」とは、なんと窮屈なものであろう。とある「派遣の女性」が出勤前にファミレスで朝の30分をすごす。彼女はそこで自分の日記を書くのだが、それは自分にだけ分かればよいので、ぐるぐるとした線になってしまう。そういう彼女の意識のありようが、例によって様々な人たちの推測・伝聞というかたちで報告されていく。
ひとは仕事を通じて自分の能力を開発し、自分自身の生活形態を作り上げていく。ところが派遣という労働形態は、たいていの場合、労働する人を最低限の水準で生かしつつ、その人に昨日とまったく同じ仕事を反復させる。人はその労働形態のなかで自分を発展的に形成することができない。「自分の時間を奪われるために生かされている」そうした拘禁状態におかれた女性が、出勤前のひととき、フリータイムを味わうのである。
そしてその「自由」の内実はといえば、昨日食事して帰ってくるときに酔っぱらいが寝ているのをを見かけた、その人が自分のおじいさんに似ていた、といったイメージ、そこから想起される過去の自分のイメージのつらなりを反芻することである。自らの外側の生活条件を変更することができないとき、人の生きる力は内向化し、そこに独自の世界を作り上げる。
その世界を言葉にすることすら、フリータイムのなかに「永遠」を見つけてしまった彼女には不可能である。なぜなら言葉にして発することは、自己のなかに渦巻くイメージを「自分の」ものとして取り押さえ、それを自己の外部に伝え、その他者に影響を与え、秩序を形成しようとする最初の一歩となるからである。
舞台に登場する報告者たちの言葉は、「てにをは」の助詞が何度も入れ替わり、誰が主体で何が客体なのかが幾度も訂正される。それは、自由の基礎となる主体の確立、明確な文法構造によってようやく形成される「現実」といったものを、舞台そのものが拒絶しているかのようである。
拘禁された身体のなかで紡がれる連想の記述、これは内面性の文学である。現実的身体が拘束されたときに花開く文化というもの、無力にも内向した自由への希求、その虚しさと切なさを感じた。青春群像を描いた秀作である。(beautifulworld)



コメント (5)
私思うんですけど、この記事を書いた人は、劇中に出てくる派遣の人の気持ちが全然わかっていないと思いました。
現実の生活が拘束っていうんですか?だからイメージの世界に逃避しているっていうんですか?でも、現実の生活だってもはやイメージの世界だと思うし、空想やイメージだって現実だと思います。どっちがどっちって分けられない生活をしているから、そういうふとした生活の瞬間にちょっとだけ自由を感じるんだと思う。
チェルフィッチュの「〜の話します」っていう言い方は、現実の生活とイメージの世界が分けられないような感じで現実っていうのはあるんだよということを表現したいんじゃないかな。「青春群像を描いた秀作」って、上から目線で不快です。
空想少女 | 2008年05月02日 16:13
2008年05月02日 16:13
beautifulworldさんのレビューも、空想少女さんのコメントも、僕は両方とも非常に面白いなと思って読みました。僕もこの「フリータイム」を観にいきたかったんだけど、労働形態上、肉体が仕事に拘禁されあえなく断念したので、どんな感じだったのかすごく知りたいと思っていたところでした。
僕が前みたチェルフィッチュの舞台では、一個体につき一人格というワンセットを切り離して役者というコマ(媒介者)がストーリーを伝達する、という手法がとられてて、だから女性の人格が語ってると思ってたら急に男性が語りだしたりして。チェルフィッチュの手法は面白いですよね。ひとつの肉体につきひとつのキャラクターを設定して動かすというのは劇の形態としてオーソドックスだし、また僕たちが普段生活する実世界でも当然だとして受け入れられている思想だと思うんだけど、チェルフィッチュ的手法によって別の在り方を示されてハッとしたことを覚えています。
beautifulworldさんのレビューの2段落目、
>ひとは仕事を通じて自分の能力を開発し、自分自身の生活形態を作り上げていく。
>ところが派遣という労働形態は、たいていの場合、労働する人を最低限の水準で生かしつつ、
>その人に昨日とまったく同じ仕事を反復させる。
>人はその労働形態のなかで自分を発展的に形成することができない。
>「自分の時間を奪われるために生かされている」そうした拘禁状態におかれた女性が、
>出勤前のひととき、フリータイムを味わうのである。
低賃金で同じ仕事の反復をすると、自分を発展的に形成できない。上記の文章を極論すれば、こう読めなくもありません。じゃあ高給取りで建設的な仕事をして余暇は高尚な映画や文学に触れている人は自分を発展的に形成できるんですかと、邪推したくなってしまう。(そもそも職場って、基本的に日々同じことの反復をする場所だと思う。)
確かに派遣という労働形態は賃金も低く、生活の保障もあるとはいえず、拘束時間も相当なものなのかもしれない。じゃあ正社員は、公務員は、自営業はどうだろう。
彼ら全てが広々と自由を味わい、人生を謳歌しているのかというと、僕にとってはそれは甚だ疑わしいことです。一見自由気ままに生活しているかに思える学生だって、数百万の奨学金を借りて自由な時間を購入しているようなもので、働き始めればその借金を返していかなければならないでしょう。
どんなに人から羨まれるような社会的地位を持っていても、そのおかれた人間関係、環境ごとに各々拘束されているはずで、自分の肉体が置かれた状況が不条理であると絶望を覚えたことが一度もないなんて人は、かなりレアなケースではないかと僕は推測しています。
つまり僕は、派遣だけが拘禁されているかのような表現に対して反論していて、今生きている人たちは多かれ少なかれこの派遣の女性のような感覚を持ち得るだろうというのが僕の意見です。その傾向が顕著で最もわかりやすい労働形態が、今の日本の状況であれば派遣だということなんじゃないだろうか。
拘禁された身体が紡ぐ内面性の文学という評、非常に興味深く読みました。ただ僕には判りにくかったところがあって、明確な文法構造でみっちり練り上げたものが「現実」として形成される、って所なんですけど、それはどういう意味でしょうか。事実として起っていることを言葉で伝えられないために現実把握が出来ない、現実を真正面から受け入れられない位の意味で捉えればいいでしょうか。一瞬僕は「現実」ではなくて「イメージ」だったら合点が行くなと思ったんだけど、(彼女の中に渦巻くイメージを、彼女は自分にしかわからない状態にしている、とあるから。)それも何だか違うような気がして。
以上長々と書いてしまったけれど、今回「フリータイム」で扱われた主題が伝達不可能なイメージを日記にする女性ということで、形式においても内容においてもチェルフィッチュの舞台は二重の意味で伝達性がポイントになっている気がしました。次回作が楽しみです。
坐禅少年 | 2008年05月03日 17:41
2008年05月03日 17:41
みなさまコメントありがとうございます。
空想少女さんのコメントはかなり本質的な論点にかかわると思うので、まずは座禅少年さんに対してお答えします。
座禅少年さんもおそらくお分かりの通り、私は派遣以外の常勤の労働形態が拘束から無縁だと主張しているわけではないので、座禅少年さんの主張内容をそのまま承認したいと思います。
ただ、一点わかっていただきたいのは、派遣とは、単純反復労働を会社組織からアウトソーシングすることによって生まれた労働形態だということです。基本的に企業内教育の機会を与えない、そのコストを削減することを目的として政策的に創出された労働力なのです。たしかに公務員も一般労働者も拘禁されている。しかしそのなかでも、派遣先での企業教育を受ける機会とコストをはじめから排除された存在が派遣なのです。そして派遣という労働形態を作ることにより、企業の正社員は基本的に企画的・管理的労働を担う企業の基幹的存在として位置づけ直されました。個別的な例外はいくらでもあると思いますが、全体的に見て、正社員が拘束から無縁だと主張することが無理なのと同様、正社員と派遣が、労働を通じた自己形成という点で、まったく同種の条件下にあるということも難しいと私は思います。
蛇足ですが、労働のステイタスを決めるのは、賃金でも休暇でもなく、教育です。十分な企業内(労働内)教育と能力開発が期待できるポストは、労働ポストとしてステイタスが高い。この可能性が、労働を通じた自己形成と密接な関係にあるのはいうまでもありません。
それから文法構造についてのご質問ですが、文法が本格的に壊れた文章は、現実に対応しないということです。文法的に正しくとも現実にそぐわない文章というのはあります。それは一般に誤りといわれます。しかし文法的に破壊された文章は、現実と照らし合わせて正しいとか、誤っているとか判断することもできないのです。現実について何かを主張する、もしくは現実を具体的に構成するには、少なくともその文章は文法上の要求を満たしている必要がある。しかし、チェルフィッチュで表現される文の連なりは現実との対応関係を不可能にするような様々な構文上の操作がなされていた、ということです。
空想少女さんに対しては、稿を改めます。
beautifulworld | 2008年05月04日 04:29
2008年05月04日 04:29
空想少女さんの慧眼には感服いたしました。
私などは、前作の「3月の五日間」においても、戦争をめぐる現実的な政策過程に影響を与えようとする政治的な行為(たとえばデモ行進)などが揶揄され、それをむしろ舞台背景としてラブホテルでセックスにふけるという個人的行為が強調されているように感じたのでした。これは現実からの退行、無力さの証明であるかのようであり、かつてのベトナム反戦の時代からの距離をしみじみと感じたものです。
おそらく今作の派遣の女性も、労働組合を結成して労働条件の変更を迫り、それによって労働の現場でも、そして余暇時間においても、より有利な自己のあり方を現実的に追求しようなどとは夢にも思わないに違いありません。労働組合の活動家がもし舞台に登場したら、おそらく徹底的に揶揄されるのではないでしょうか。
私はそれを批判しているのではありません。哀悼しているのです。というのも、空想少女さんがおっしゃるとおり、戦争の「現実」はメディアが伝えるイメージであり、労働の「現実」とはデスクにおける記号の操作でしかないからです。現実はイメージであり、イメージもまた現実である。そして主体であるはずの派遣の女性も、誰それの話として、つまり記号として語り継がれるかぎりの存在でしかない。すべては映画のスクリーンの中に登場するかのようです。フリータイム、つまり自由時間もまた、そのスクリーンのワンシーンでしかない。
こんな時代に現実と向き合え、と言われても、戦争や労働という「現実」なるものがイメージであり、しかもそれは自分から疎遠なものでしかない以上、ラブホのセックスとか、ノートの上の線とか、おじいちゃんの記憶の方がまだしも個人的なリアリティ(現実性)がある。だからそっちの方に行ってしまうのです。
現実もイメージもどちらもイメージなら、よりリアリティのあるイメージ、つまりプライベートなイメージを選ぶ。そして、そのように逆転して現実となった極私的イメージが、自分を根底のところで苦しめている戦争や労働の「現実」というイメージのありかたに変更を迫ることは決してあり得ないのです。これに私は共感しつつ哀悼の情を感じます。私もそういう存在だからです。
映像の一つの要素としての私も、スクリーンの上で、ときに自由のかけらを感じるしかない。そういう意味で、この作品に共感を覚えます。「青春群像」のくだりは失礼しました。お許しくださいませ。
beautifulworld | 2008年05月04日 05:13
2008年05月04日 05:13
うーん、どうかなあ。やっぱりbeautifulworldさんは、現実とイメージの区別の中で生きていると思うんですよ。どうしても、イメージの世界になっちゃったことを悲しんだり、嘆いたりしているところがあるでしょ?
どちらかというと、私にとっては、世界はもうはじめからイメージなんです。イメージだからといって嘆いたりしない。私も派遣の仕事をしています。私の毎日はいろんなイメージのなかで拘束されているけど、その外に何か本物の現実があるとは思わないし、思えないです。
私が希望を感じるとすれば、何か新しいものを、つたないけれども何かを自分なりに表現できたときなんです。それがアートなんだと思うんです。想像したり創造したりしている自分が好き。そういう思いで、劇中の女の人も、ノートに線を書いていたんだと思います。逃避じゃなくて、線を書くことではじめて、ほんの少し自分になるんですよ。だからフリータイムなんです。
きちんと言葉や作品にならなきゃダメですか?発表して批評されて、人を感動させて、賞とかもらわないと、逃避になるんですか?
空想少女 | 2008年05月07日 01:34
2008年05月07日 01:34