今話題のびわ湖ホールで行われたピナ・バウシュ『フルムーン(原題は“Vollmond”)』に行ってきた。(フルムーンの映像はyoutubeで観ることができる。)
【画像:Ensemble. Foto: © Laurent Philippe(ピナの公式HPから)】
ピナ・バウシュの『フルムーン』で重要なモチーフとなっていたのは、満月ではなく、水であった。月を思わせる舞台美術はせいぜい中央に置かれた巨大な岩状の物体ぐらいで、むしろ目立ったのは、時折天井から落ちてくる大粒の雨を思わせる水だったり、舞台後方に作られていた浅いプールだった。そのような舞台上で、ダンサーたちは、ペットボトルに入れられた水を手に踊ったり、プールの中に入ってお互いに水を掛け合ったりしていた。水との共振ともいうべき身振りを延々とコラージュしていくことで、作品は進行していったのである。
『フルムーン』で使われていた水は、単なる物質として扱われていたわけではない。公演チラシに、水は「人間を取り巻く環境の中で生存に最も重要なもの」といったことが書かれていた。だが、ピナの舞台には、それ以上の含意があったように感じられる。その含意とは、−妄想が過ぎるように思われるかもしれないが、敢えて誤解を恐れずに言うならば−「愛」である。『フルムーン』における「水」とは、人が渇望してやまない、あるいは与えようとしてやまない愛のメタファーだった。つまりそれは、目に見えない愛を視覚化したもののように思われたのだ。
例えばこんなシーンがあった。女性ダンサーが林檎を持って登場し、客席に座る男性に渡した途端、彼女は「私は飢えてるの」と叫んだ。あるいは、男性ダンサーが舞台中央の巨大な岩へ登って「これはぼくの物」と叫んだ。男性ダンサーと女性ダンサーがカップルの痴話げんかのような身振りを見せたり、女性ダンサーが男性ダンサーに激しく抱擁を求めたりもした。「一度に来る大きな愛と、毎日毎日少しずつの愛ではどっちがいい?」というセリフが語られたり、さらには、6名ずつの男女のダンサーたちがパートナーを変えながらキスをしたりもした。
何らかの「愛」をめぐる状況が描かれているこれらのシーンに、時として水が現れる。そのとき舞台で明らかとなるのは、愛をめぐる関係性が、必ずしも上手くいってないということだった。例えば、女性ダンサーが構えたグラスに男性ダンサーが水を入れる。だがその後、その男性ダンサーは、グラスからこぼれてしまうほど多くの量を注いでしまう。また男女のダンサーが入り混じり、歓喜の中でプールの水を掛け合ったりする。関係が目に見えなければ、「この人と上手くいっている」と思い込むこともできるだろう。だがピナは、実際はこうなっている、と「水」で描いていく。そんな風に多少のコミュニケーション不全を抱えながらも、与えようとする誰かと求めようとする誰か(時によっては求めようとしていない誰か)との関係性が描き出されていく。
ラストシーンにおいても、そうした意味で「水」が使われていた。そこでは、天井からしとしとと降り落ちる水の中で、男女のダンサーたちが床に座り込み、ひとりひとりが身悶えしているかのような身振りを見せていた。愛を求めたり、与えたりしようとする試みが延々続けられ、それがほとんど失敗に終わることが示された後の身悶え。それは『フルムーン』ほとんど唯一のユニゾンで示されていた。愛を誰かに完璧に渡し共感してもらうことは不可能ではある。だが、その不可能性においては誰もが共通しているし、共感することも出来る。そしてそんな共感の次元を開くのは、この身悶えを引き起こしている「水」なのだ。ユニゾンでの「身悶え」は、あたかもそういうことを示しているかに思われた。
そういえば、『フルムーン』は、水と関わりのないシーンから始まるのだった。二人の男性ダンサーが空っぽのペットボトルを力一杯振り回し、音を聞かせる。水が愛のメタファーであるならば、この冒頭シーンの音は、空虚な、愛なき世界の音だということになるだろう。そう考えると、『フルムーン』は、そんな空っぽの音から始まり、延々と愛の交歓/交感/交換をめぐるエピソードが連ねられ、ついには愛の伝達不可能性が示される物語だったのではないだろうか。
そんな物語になお、「それでも僕らは・・・」と自己肯定的な言葉を付け足すことが許されるのではないかと思えるのは、カーテンコールに現れたピナ・バウシュが優しい笑顔を見せたせいだろうか、それとも単に僕がいま恋をしているせいなのだろうか。(yh)


