アート・オープン・カフェ(Art Open Cafe:AOCと略)がついに始まりました。福岡シリーズ第1回には多くの方々にご来場いただきました。ありがとうございます。
AOCでは毎回の講座の内容、みなさまからのご意見・ご感想をまとめた「アート・オープン・カフェ通信」をアップしていく予定です。AOCのHP(こちらをクリック)を現在調整中ですので、暫定的にドネルモに掲載いたします。お越しになった方はもちろん、興味をお持ちの方、是非ご覧ください。
■アート・オープン・カフェ通信 vol.1-1■ text:ファシリテータ 古賀徹
アートの後のアート なぜいま北九州ビエンナーレか 2007.9.21.@イムズ10F会議室
ゲスト:宮川敬一さん(アーティスト、北九州国際ビエンナーレ・ディレクター)
福岡第一回目は、AIKの宮川さんをお迎えして、「アートの後のアート」という題名で、おもに北九州国際ビエンナーレを中心にお話を伺いました。お話を振り返りつつ、その背景などについて、古賀なりの見方を述べてゆきたいと思います。
選択して配置せよ
宮川さんは、アーティストの仕事は素材を「選択してそれを配置すること」だとおっしゃいました(20世紀のアーティスト、M・デュシャン晩年の言葉とのこと)。それはひとつの「編集」の作業とでも言うべきものです。
アートもまた「編集」である。でも、そう言われても「?」という方、けっこう多いのではないでしょうか。というのも、「作品とは作者の魂の表現である」というロマンチックな考え方が、(アートの歴史では19世紀のものとされますが・・・)やはり一般的には強い影響力を持っているように思われるからです。もっとも、切実な魂の表現を主眼に置くこの考え方に対し、20世紀(特に前半)のアート界では、編集による独特の「効果」こそアートの追及すべき領域だという考え方が登場、大きな影響力を持つこととなりました。
それは、その場その場での素材のベストな選択と配置を追求する試みでした。美術で言えば、絵画を構成する色彩や描線、更には美術を支える制度(美術館etc)と戯れながら、既存の美術のイメージをその都度新たに組み替えてゆく試みでした。宮川さんが好きだというマティスのフォーヴィズムはその先駆けでしょうし、ダ・ヴィンチの「モナリザ」にチョビヒゲを書き、便器を美術館に展示したデュシャンなどは、まさにその典型といえるでしょう。
もっとも宮川さんの場合、「編集」は作品だけの話ではありません。宮川さんは自ら絵画を描くことを出発点としながら、ギャラリー・ソープという場所で、音楽や美術にかかわるさまざまなアーティストを「編集」し、そうすることによって人間関係を形成しつつ、一つの状況を生み出すお仕事を続けてこられました。ギャラリー・ソープではスペースをレンタルすることなく、すべて宮川さんの選択によって催しを企画しているそうです。そしてそうした長年にわたる活動の延長線上に、今回、北九州国際ビエンナーレにおけるアーティストと作品の選択があるといえそうです。
編集を重視する考え方は、デザインに通じるものがあります。デザインとはデザイナーの魂の表現ではなく、その場でもっとも効果を上げる物質の配置が追求されます。新聞や雑誌は情報の選択と配置そのものであり、その意味で情報のデザインであり、内装や建築もまた物質素材の選択と配置以外のものではありません。いまやアートは、個別の作品を作るということと並んで、それらの作品をどう配置して、どのような状況を作り上げるかということに関心を抱いているのです。そういう意味で、アーティストでありながら展覧会のキュレーション(企画)を手がける宮川さんは、現代のアーティストの一つのあり方を示していると言えるでしょう。
アートのあとのアートとは?
今回の宮川さんのお話の表題であった「アートの後のアート」とは何でしょうか。
近代以前の西欧のアートは、教会や貴族に従属していたと考えられています。つまり神や教会、君主や貴族の権威を高めるという目的のために、作品が「手段」として使われていたのです。宗教画や肖像画、教会彫刻などは、神聖(真正)なものという効果を高める「装飾」として利用されていました。それは教会や君主による社会的な支配を支える役割を果たしていたと言ってもいいでしょう。
こうした状況に対して、19世紀以降の近代のアートは、作品自体が「目的」であることを主張し、教会や社会の権力から独立することを宣言しました。封建社会から近代社会へと移行するのに時を同じくして、アーティストは誰かの「お抱え職人」から、自立した表現者へと変身しました。アーティストの経済的基盤は、市民が作品の価値を承認しそれを購買すること(もしくはコンサートでお金を払うこと)によって、まかなわれることになりました。優れた作品を制作すれば、アーティストは誰にも従属することなく、その才能を自由に表現できることになったのです。
こうした自立した市民による自由な判断を通じて、アート市場は成立し、またその判断に支えられて、美術館のあり方が決められることになりました。美術館の学芸員というのは、一応、優れた判断を下す市民の代表ということになっているはずです。その判断が優れているかぎり、優れた趣味を持つ市民が多数美術館に来場するはずなのです。市場と美術館のシステムがもっとも良く機能したのは、20世紀であったといえるでしょう。日本においては、1980年代ぐらいまでの美術館ブームがそれに対応するかもしれません。
ところが、1980年以降の日本においては、美術館と市民との乖離が問題とされるようになりました。学芸員の側も、これは学術的に立派な意義ある作品となっているから、という理由で展示を企画し、市民の側は、その作品の良さがどうも良くわからないながらも、「立派な作品が来ているから」(もしくはコンサートホールにすごいオーケストラがきているから)という理由で美術館に来場するという具合です。アーティストの側も、美術館や仲間の評価のために作品を作るという感じになり、市民との乖離を深めていった側面もありそうです。この傾向は現代美術に特に顕著であったと言えます。
今回の宮川さんの「アートの後のアート」という表題の最初の「アート」にあたるのが、こうした美術館・批評家・制度によって「立派とされているものとしてのアート」だと私は解釈しました。批評家や学芸員が保証する価値ではなく、ごくふつうの「OL」さんがその良さを実感できるものとしての、もう一つの「アート」のあり方、それを宮川さんは求めているのではないでしょうか。
まちなかの小さな会場で、自分がいいと思うものをジャンルを超えてお客さんに提供し、それを楽しいと思ってくれるお客さんが来場する、そうした(割と小規模な)アートの空間を維持すること、ここにもう一つのアートのあり方がありそうです。
ワークショップを超えて
アーティストや美術館と市民とが乖離してしまった現実に対して、さまざまなことが試みられました。一つは美術館に来なくなってしまった市民に対して、美術館の外にアート作品を展示しようとするもの(たとえばミュージアムシティ・福岡)、もう一つはアーティストと市民が共に作品制作にかかわるものとしての「ワークショップ」がそれです。
宮川さんは、「ワークショップは市民を馬鹿にしているのではないか」という趣旨のことをおっしゃっていました。それはこういうことではないかと私は思いました。つまり、作品の面白さで勝負するのがアーティストであるはずなのに、その作品が市民と乖離してしまったからといって、作品制作のプロセスに参加させれば市民と「つながれる」というのはどうなんだろう?というのがそれです。わかりやすくて容易な「参加」の方法をお膳立てして、その通りにお客さんをコントロールし、それで「つながれた」というのは、お客さんを子供扱いしているように思われます。
そうではなく、自分が良いと思うものを提示し、それについての判断をお客さんに委ねる、アーティストはそれに賭ける、というかつての近代芸術のあり方をもういちど宮川さんは取り戻そうとしているように、私には思われました。
アーティストの復権
宮川さんのお話は、とどのつまり、アーティストの復権、というところにあるのだと思います。近代的なアートは、それを支える画商、ギャラリー、批評家、アート雑誌、美術館、大学、巨大ビエンナーレ、キュレーターといういわば制度によって運営されるようになり、その強力な制度がアートと市民との間に壁になってしまった。そこでもう一度、作品が生まれるその現場の力を直接に観客に訴える。そのためにこそ、アーティストが自ら展覧会を組織する、ということではないかと思います。
巨大ビエンナーレのありかたとして、国家なり自治体なり財団なりがキュレーターを指名して、その人の方針にあうように制作現場が支配される。そうやっていわば道具のように、「手段」として利用されるアーティストやアートではなく、物の成り立ちに直接にかかわるアーティストが、自ら自分たちの文脈を組織する。そしてそれに賛同してくれるところからできるだけたくさん、支援を得ていく。それに対しては、企画と作品を通じた市民へのメッセージでお返しする。
そういうスタンスは、「cute or creepy?」というコピーにも込められているように思いました。物事が「かわいい」のか「気持ち悪い」のか、同じものでもその状況、文脈によっていくらでも変わっていく。物事を作ると同時に、それを見せる文脈も組織する。作品とそれにかかわる状況の双方に関与する。それが宮川さんの考える、アーティストの新しい自立のあり方なのかと思いました。
北九州、福岡、東京
そういうふうに考えれば、北九州に生きるアーティストが、その固有の文脈のなかで独立して培ってきたものによって、さまざまな制度を媒介することなく、直接、直接海外のアーティストと連絡し、場をともに組織することも可能になります。
美術館や財団、美術雑誌という制度は大都市にあり、とりわけ日本において東京は圧倒的な力を持っています。美術雑誌に取り上げられたり、有力なギャラリーに認められたり、そういう人脈を作るには、東京の方が有利でしょう。だがそうした制度に使われるのではなく、それを逆に利用しようとするとき、表現の場は東京である必要はないのかもしれません。だが、はじめからそうしたものに頼らない展覧会を組織するならば、今度はそうした東京の制度をこちらから利用して、使い倒すあり方もありそうです。
そういう姿勢をとるかぎり、海外に発信したり、海外の人たちと連携をとるのに、わざわざ東京を経由することもなさそうです。企画と場所はローカルでありながら、連携先と発信先はグローバルである。それを可能とするメディアはインターネットである。そしてこうした新しいアーティストの自立性こそは、今後のアーティストのグローバル・スタンダードなのだと言えそうです。
私が先に宮川さんとお話ししたときに印象深かったのは、北九州と違って福岡はいわば、「ミニ東京」なのだというお話でした。福岡には、美術館や大学、ギャラリーなどミニ権威があるように「見える」。そこでなんとなく、そこと人脈を作っていけば可能性が開けるように「思ってしまう」。だが北九州にはそんな幻想はあり得ないので、やる気のあるアーティストは、自分からいろんなところに出かけて、きちんとプレゼンして、自分の成果で自分を売り込む。制度に頼るのか、制度を利用するのか、その差が福岡や東京と、北九州のうちにはあるような気がする、とのお話でした。
宮川さんの言葉、「持たないものがやれること」としての北九州国際ビエンナーレ、どんなものなのか、今から楽しみです。
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みなさまからのご質問・ご意見
時間中にご紹介できなかった質問やアンケートに寄せられたご意見のうち、いくつかをご紹介したいと思います。
宮川さんへのご質問・ご感想
■ご質問
[アート一般について]
・これはアートではできないよなあ、これはアートにしかできないよなあ、と思われることは何ですか。
・アートに触れるとき、作品やアートの知識は必要ですか。
・個人製作と共同制作の間に本質的な違いはありますか。
・社会に対してアートが果たす役割とは何ですか?
・「都市」にアートは必要だと思いますか。
・作品を難しそうだと思わせない、お客さんが引いてしまわない、そういう工夫がありましたら教えてください。
・他のアーティストとコラボレーションするとき、一番大変なのは何ですか。
・作品を通じた観客とのよりよき関係は、作品がよほど優れていないと難しいのでは?偉大な芸術が観客を感動させる?
・アーティストの選定基準は?
・「選択して配置するだけだ」は誰の言葉ですか。この言葉に出会う前の宮川さんの考えはどのようなものでしたか。
・今の日本はアーティストにとってもっとも恵まれた時代だと思うのですが、それについて制作者としての宮川さんはどう思いますか。
・個人制作と共同制作のそれぞれについて、一つのものを作り上げるにあたって、一本の筋のような、一貫性は必要であると思いますか。それはなぜですか。
・会場の門司を選んだのはなぜですか。
・アートとデザインの違いは何ですか。
[北九州国際ビエンナーレについて]
・北九州における団体・スペース・美術館との連携についてはどう考えていますか。
・ビエンナーレの帰りに寄れる、うまい店を教えてください。
・来てくれたお客さんにとって、北九州国際ビエンナーレをどんな場所にしたいと思っていますか。
・「北九州ビエンナーレ」と似た名称にした理由は?
・シンポジウムのテーマ「冷戦」は個人的な趣味ですか、何かの意図があるのですか。
・地元商店街との具体的な関わりとは何ですか?
・チラシになぜあのフルーツの作品を選んだのですか?
・物を見ることより、映像に力点が置かれているように思いましたが、その理由はなんですか?
・音楽、音にウエイトをおいているのは、今の趨勢なのでしょうか。
・どうしてビエンナーレにデザインとかサブカルとか、アマチュアの作品はないのですか?いかにもアート的なもののような気がする。
・地域住民の反応を知りたい。
・宮川さんにとって、イベントの成功のイメージ、やってよかったと感じるイメージはどんなものですか。
■ご感想
・「アーティスト」である宮川さんが、がんばって話してらっしゃるのが楽しかった。
・宮川さんの話し方、物腰が穏やかで、話も聞きやすかったです。
・アートに対して敷居の高さを感じていたが、少し和らぎました。
・ぜひ北九州を訪れ、自分の目で見て感じたいと思いました。
・私は自営業ですが、夜遅くまで働き詰めでへとへとです。休みの日までよくわからないアートを見ようとは思わない。家でアニメのDVD見ている方がよほどアートに触れている気がします。アートどうでもいいです。でも、がんばってください。
・門司地区は、まちおこしのためにアートや音楽を採用した地域であるからこそ、地域との関わりがディスカッションという次元で済ませられるような気がしました。
・もっと深い話を期待していた。現代アート作家はもっと真剣に取り組んでいます。
企画側へのご質問・ご意見−《 》はファシリテータ古賀・山内のコメントです。
■ご質問
・アートと市民を結ぶために、今回のアート・オープン・カフェはどのような考えを持っていますか。
−《私としては、とにかく場を設けて作品や状況について語りあうことが必要だと思っています。-古賀》
・古賀さんへ。アートにどうして「言葉」が必要なのですか。
−《お互いの考え方、感じ方を知るためです。-古賀》
・山内さんが「いわゆるアート」と言うとき、そこで念頭に置かれている仮想敵は、どのようなものですか。
−《具体的な何かというよりもむしろ、作品と受け手の間で個別に生じる関係とは別の次元に、絶対的・普遍的な価値としての「アート」が存在するという考え方、アートの価値をどこにでも持ち運び可能な「モノ」のように捉える考え方を、仮想敵のように捉えているのかもしれません。例えば、素晴らしいと「されている」モノをお宝のように展示することが文化的な営みであり、それに感動できないとすれば受け手が悪い・・・といった考え方がそれです。−山内》
■ご意見・ご感想−《次回以降、参考にさせていただきます。ありがとうございました。》
・アートをくずして、分かり易く説明しようとしていたので、よかった。
・曖昧な言い回しに対してはファシリテータからツッコミがはいって、わかりやすかった。
・宮川さんとファシリテータの進行が上手くかみ合って、聞きやすかった。
・後半に入ってからが、面白く感じた。
・もっと時間があれば、いろいろなお話を聞けたと思う。
・ローカルとグローバルの交錯の話は?
・福岡と東京の文化の相互作用について話を聞きたかった。
・受講料が高い割に、内容が薄いように思う。
・申込や受講料を支払うシステムがオープンじゃない。
・話はわかりやすかったが、全体として普通だった。
・受講者の方が多かったのは良かったと思うが、少し会場が移動しづらい。
・テーマが必要なのはわかるが、もっと自然体の話も聞きたい。
・受講者と講師とが交流できる時間がもっと欲しい。
・スタッフの気配りを改善してほしい。
・内容が抽象的で漠然としている。もっと具体的な内容を取り上げてほしい。
・とにかく受講料が高い。支払い方法が煩雑。



コメント (1)
古賀さんに出したメールのレスが、手違いでアップされてました。(ずど==ん)
以下、少し手直しして差し替えてもらいました。
古賀さんのレポートと、カフェの宮川さんを思い出しながら、感想(+疑問)を書いたものです。
1)「ワークショップ」:
「ワークショップ」は、必ずしも作家が客を馬鹿にしてるとも思えないけど・・というのは、素人考えでしょうか?
作家と市民が、ある「時」、ある「場」で「遭遇」する「瞬間」に、互いの中に<変化>が起きて、偶然に生まれる作品もあるのでは?っていうのは、幻想??
予想外のことを想定するプロセス自体が、作家の織り込み済み(=狙い)であるとしても、観客を「コントロール」できないことに違いないのではないでしょうか。ゆえに、単に作家と市民が「つながれる」という融和的、調和的なものを超えることも、「ワークショップ」には、あるんじゃないかな?と、思ったのでした。
と言っても、「ワークショップという形式」が「反復」されることで、その形式自体に 既視感をもってしまうオーディエンスがいるだろうとは思うのですが。
2)「アーティストの復権」:
古賀さんが「復権」と記されたのは、それをアーティストが、かつては持っていて、回復する・・ということでしょうか?
素人で、よくわかりませんが、本当にそんな時代があったのか?疑問です。 19世紀以降、例えば美術館などの展覧会を通じて、作品が市民の目に触れることになった時にも、「媒介者」は、常にいたのでは?
媒介者は、無色透明などでないために、作品制作に 何らかの影響を及ぼすこともあったのではないでしょうか?
3) Dear 眼/メディア:
媒介者といえば、先日、オープンカフェの後、帰宅して、北九州ビエンナーレの招待券をよくみたら、チケットの後援に、メディア各社の名がずらり。
朝日、毎日、読売、西日本新聞、RKB、 NHK、TNC、FM福岡、等々。 福岡の住人にとっては、ビッグネームばかりで ビックリしました。 北九州市の教育委員会も共催。
ビックリと同時に、マスメディア、教育機関、また、こうしてインターネットという「媒体(メディア)」を通して(利用して)、不特定多数の人の眼に、情報が届くのはいいな・・とも。
インターネットは、グローバルな繋がりができると同時に、階層化され、閉塞したコミュニティに閉じる可能性もあるだけに、宮川さんたちがマスメディアを徹底して利用されたのは、逆に新鮮でした。
宮川さんは、カフェで、「作家は、作品をわかりやすく解釈などせずに作品を展示して、「直接」観る人に見てほしい・・」とおっしゃっていました。意図は、わかる気がします。
でも、「媒介者」=「メディア」を通して情報が流れることは不可避で、そこには常に、なんらかの媒介(者の解釈)が入るため、作品と市民が「直接」向かい合う・・というのは、実は限りなく不可能かもしれないと思いました。
作品を生み出した作家もまた、作品を一旦生み出した後は、媒介者の位置にいるわけですし。
・・なので、なんらかのメディアを媒介した中に、常に観客は置かれているのでは?と、思います。
4)アーティストが企画する展覧会・・という作品:
「アーティスト自らが展覧会を組織する」とは、展覧会そのものを、「作品」と見ることに繋がりますが、とすると、それは、誰の作品になるのでしょうか。
それとも、作品が作家の所有物、という考え方自体を転倒させる意図も、今回の企画に含まれているということでしょうか?
5)Cute or creepy?
“cute or creepy?” のコピーが、今回の展覧会のコンセプトだとすれば、それは、古賀さんが指摘するように、同じものでも、文脈によって変わる・・と、受け取れます。
と、同時に、二つの選択肢の中から選べ・・という、メッセージを受け取っている気分にもなってしまう。
「選択肢は、二つしかないの?」と、言葉尻をとっているのではないです。宮川さんが批判するような「ワークショップ」とも違う、また、大きな美術館がキュレーターを雇ってするのとも別の「展覧会」をアーティストが組織したとしても、その意図を超えて「コントロール」は避けられず、作用してしまうのでは?と、思うのです。
上に書いたように、常に既に、「媒介」を逃れるわけにはいかないので。
もちろん、そうしたコントロールをさらに超えたところに(も)、作品と観る人の「遭遇」は、あるのだと思います。
いずれにしても、楽しみです。何が?といって、なんというか、とにかく色んなものを巻き込んでいく「心意気」が伝わってくるので。 理屈抜きに、結構楽しみにしてます。
宮川さんは、ご自分の活動を「限りなく低空飛行」と形容してましたが、飛行が、ずーーーっと続くことがすごい。しかも、自分たちで風を起こして。この秋は、いい風が吹きそうですね。
ishii | 2007年09月26日 13:01
2007年09月26日 13:01