
先のレヴューにもあった『ダーウィンの悪夢』では、確かに身じろぎもできず、エンドロールが終わるまで金縛りのように席を立てないような雰囲気になりました。それほど、スクリーン上での映像は現在の日本人の倫理観や衛生観を破壊し、見る人を虚脱化させたようです。しかもそれはこの映画を見る他ならぬ先進国の経済に組み入れられたために起こっている、と無言の演出効果によって意識させられるのだから、罪悪感と絶望感もひとしおです。
強烈なのは、タンザニア人の日常生活です。日常生活ですが日本のそれではありません。(おそらくグローバリゼーションや環境破壊などの影響で)農業をやっていけなくなった内陸の若者の多くがバラックに住み着き、ナイルパーチを採っています。そのバラックにはこれまた行き場をなくして娼婦となった女性達が住み着いています。ちなみにその村の教会神父の話では、人口400人なのにエイズで月に10人以上が亡くなるということです。「コンドームはないのか」と取材陣が聞くと、神父は答えに困って「キリスト教としては、それは勧められない」としか言えません。では村が消滅するかというと消滅することもない。おそらく次々に行き場をなくした若者と女性がこの村へと流れ着いてくるのでしょう。村が2,3年で消滅するほどの人数が病気で死んでいるのに、なお産業は存続するという状態に、私たち日本人の理解力はすでについて行けません。
次にこの採った魚は、加工工場に運ばれます。この工場は、国連食料計画などが何十万ドルを出して建てたそうです。つまり国家的な援助の賜物なわけです。従業員は皆清潔な白衣とマスク、帽子を着けて流れ作業で魚を捌きます。当然国際基準の衛生検査もバッチリで、これなら欧米や日本の消費者も安心して口に入れられます。ここだけで一日200万人分の白身が生産され、すべて欧米や日本に運ばれていきます。運んでいくのは、旧ソ連時代の超大型軍事用輸送機と東欧圏のパイロットです。リサイクルと雇用もバッチリです。これを視察に来た白人たちは、「この工場は素晴らしい。大変な成功だ。」と絶賛しています。その横で「飢餓に陥っている住民を救うためには1700万ドル必要」とニュースが流れています。それでも国連食料計画の支援の下、建てられたこの工場は、タンザニアの魚を欧米・日本に運んで外貨を獲得する「金の卵」なわけです。日本の衛生基準に見合う魚は飢餓にあえぐタンザニアから合法的に送られているというこの事実もまた、日本人の倫理観では理解できそうにありません。
しかしタンザニアの人にも食べられるものがあります。それが、身を取られた後の頭(や骨にわずかに付いた身の部分)です。この大量に出される「資源」は、一山数ドルでトラックに載せられ、別の工場に運ばれます。しかしその間冷凍設備はなしです。つまり腐っていきます。その魚がむき出しの地面に放り出されます。子供たちは食料が来たと、大喜びです。喜びの対象は血と土まみれの魚の山です。工場(といっても魚干し場)は露天、従業員の服は不二家の衛生事情も真っ青になるほど汚れています。その人達が魚を手づかみで木の柵に干していきます。後で揚げて食べるそうです。見るとその魚には、いつの間にかびっしりと巨大な蛆が付いています。この蛆の大群を見ただけで、不二家問題で大騒動の私たちは卒倒してしまいそうになります。その人は魚の出すアンモニアガスで片目を完全に失明したそうです。それでも「農業をやってた頃よりいい生活」と答えられては、もう何がよくて何が悪いのやらまったく分かりません。
そしてその側では少年たちが、先進国行きの魚を詰める梱包材を火で溶かして出るガスを吸い込んで意識を失っています。これはシンナーを吸っているようなものだから止めるべき行為です。しかしそれも「虐待の恐怖から逃げるためにやってるんだ」と言われれば、返す言葉がありません。時々意識を失ったまま、目覚めることもないそうです。
映画の後半で、夕闇の中、魚が空に頭を向けて、なにやらぐつぐつ茶色く沸いている液体に浸かっているシーンがありました。これは日本語でいうところの「地獄」なのではないか、とおそらく観客の皆さんが思ったのではないでしょうか。とはいえこうした光景は、普段ジャーナリズムが唱える衛生管理・産業倫理が完全に徹底され、外貨を稼ぐ工場ができて万事円満に行っている結果生じたものなのです。そしてさらに皮肉なことには、まさにこの「地獄」にいるタンザニアの人が、「生活はよくなった」といい、踊りを踊っていることなのです。
もしもジャーナリズムの真髄が、美しい理念に見合うような現実だけを見せるのでなく、それらに必然的に潜む不合理な現実をえぐり出すことにあるとするならば、西洋文明の衛生・倫理基準と資本主義的繁栄をタンザニアで突き詰めた結果生じた地獄的な現実を余すところなく描写したこの作品はまさにその真髄といえるでしょう。(くるみ生姜)



コメント (1)
くるみ生姜さんの記事を読み、しばし考え込んでしまいました。
くるみさんは、タンザニアの地獄的状況がグローバリズムの繁栄の結果、必然的に生じたものであると考えておられるようですが、それはどうなのでしょう。お尋ねしてみたいです。
たとえばここに書かれているような状況は、エンゲルスの書物などによると、18世紀のイギリスの労働者たちの生活とあまり変わらないような気がします。その頃、児童労働や伝染病により、スラムの平均寿命は20歳に満たなかったらしいです。巨大な繁栄の陰にある貧困というわけです。日本も似たような経験をしていると思います。
しかしその後イギリスは、公衆衛生や労働福祉政策によりこの問題を克服し、労働者の生活は劇的によくなりました。とすれば、タンザニアもまた、輸出による資本蓄積を原資としてくに作りを進め、将来的にはイギリスや日本のように「しあわせ」になれるのでしょうか。もしくはその道を目指して進むべきなのでしょうか。福祉政策を進めるには原資が必要で、そのためには産業が必要ですよね。その産業を作ることを国連は目指している。
グローバルな資本主義的繁栄の結果生じる陰の部分は、そのグローバリズムを進展させることで将来的に解消されたり緩和されるのでしょうか。それともそれはむなしい希望で、状況はもっとひどくなるのでしょうか。中国やアジアの例を見ると、資本主義的展開は全体としてよい方に作用しているようですが、いまのところアフリカはそうではないような気がします。
フィレオフィッシュebi | 2007年01月30日 12:37
2007年01月30日 12:37
コメントありがとうございます。
イギリスや日本の福祉政策の成功といえるものは、今に至るまで、アフリカやアジアの物資収奪を基盤に成立していると思われます。欧米や日本で使用される膨大な数の医療品や衛生用具、食料のほとんどは、発展途上国の資源をグローバリズムによって円滑に取り込むことで可能になっているのではないでしょうか。
つまりイギリスや日本の「しあわせ」は、ビクトリア湖のように資源のため環境を激変されたうえ、貨幣価値の差によって収奪されるがままのアフリカやアジアの一部の犠牲によって成立しているように思われるのです。中国やインドでは、この二極化が同一国内で起こっているようにも見えます。
するとこうしたシステムにおいて、タンザニアの人々も欧米や日本のような意味でのしあわせになれるためには、今度はタンザニア自身が獲得できるような外部が必要になるのかもしれません。しかしもはや地球上にこれ以上外部が存在しない状況、つまり外部=環境が有限になりつつあるので、その望みは薄いように思えます。もしあったとしても、それはそれですべて先進国の更なる「福祉」の肥やしになりそうな気もしますし。
タンザニアが原資を獲得して、産業を奨励し、先進国並みの福祉水準を理想としていることは確かでしょう。その努力は確かに単なる金儲けとは異なります。しかしそれが先進国のような生活水準をタンザニアの全国民に将来的にであれ保証するかについては、現状の資本主義システムを見る限り、疑問が残るところです。
事業に成功して財産の蓄積に成功した一部のタンザニア国民だけが「しあわせ」になるのか、それとも梱包材のガスを吸っている子供たちまでが将来「しあわせ」になるのか、現状のままでは後者の場合はまだまだ実現しそうにないようです。
くるみ生姜 | 2007年02月01日 23:55
2007年02月01日 23:55
勧められたので私も見てきました。
たしか後半のほうで現地の人が「食べるものさえあれば人は生きていけるんだ。」といった内容のことを言っていたと思います。最低限の食料さえあれば、エイズ、貧困、ドラッグ、暴力に満ちた「地獄」的状況でも生は育まれるという意味です。善事のはずの食糧支援すら、先進諸国の財を維持するための燃料補給に見えてしまいます。
そして中でも私が特に印象深かったシーンは、ある集会で子供たちを含めたくさんの村の人々が一緒に見ていたキリストの登場する映画でした。思ってみれば、彼らの信じる救世主も、彼らを地獄に突き落とす悪魔も、どちらも同じ西洋人なのです。後半ヘロヘロになっていた私へ、そこでついにとどめの一撃が刺されました。
メシ屋 | 2007年02月03日 00:01
2007年02月03日 00:01
コメントありがとうございます。
そうですね。食べ物さえあれば生きられるという、タンザニアの人たちの声を聞くとき、映画を見て呆然とする私の感性自体が、西洋的価値観に浸りきっているように思えてきます。そうしてみると、さまざまな産業を植えつけようとする先進国からみれば倫理的な行為も、現地の一部の人たちから見ればいい迷惑でさえあるのかも知れません。
キリスト教は、特にこの映画で皮肉られていたようです。私としては、神父の言葉と、街頭で「キリストは我らを助けたもう」と叫んでいるミュージシャンが厳しかったです。これを見るとキリスト教文化は、救わねばならぬ人を自分で増やしているような気さえします。
くるみ生姜 | 2007年02月04日 01:00
2007年02月04日 01:00
キリストが西洋人だと言ってしまうのは間違いでした。失礼しました。
細かい話はともかく、キリストが登場する映画のワンシーンでは、黒人達の中にただ一人西洋人とおぼしき人物(もしかするとアジア系かも)がキリスト役として起用されていたので、なんだか違和感を感じたということでした。「強者といってまず思い浮かべるのは西洋人だ」という現地の人のコメントのすぐ後のシーンだったので、なおさらそのように思えてしまいました。
メシ屋 | 2007年02月04日 06:11
2007年02月04日 06:11
ああ、みなさんにつられて見てしまいました・・・しばらく魚はもういいです。
この映画を、先進国による途上国の搾取と支配、という従来の構図(新植民地主義論)で見るとあまり面白くないような気がします。というのもその図式では、もはや途上国に支配可能な「外部」が残されていない以上(つまりタンザニアが支配的国家になる可能性が少ない以上)、タンザニアの子供には永久に幸福(というか最小限の安全)はこないことになってしまうからです。これは下手をするとある種の思考の中断にもなりかねません。
私は、ダーウィンの湖とまで言われたビクトリア湖の生物多様性が巨大な肉食魚によって壊滅されられたところにポイントがあるような気がします。それまではそこに住んでいた魚たちはそれぞれ食ったり食われたりして、それなりに「多様」さを維持していた。それが一方的に巨大魚の「エサ」にされてしまったわけです。
それと同じことが、経済の領域にも起こっている。本来経済的な富というのは、「よいもの」を生み出してそれを消費するサイクルの中で成立するのです。ところがここではその「よいもの」は、巨大魚だけになってしまっている。いろんな「よいもの」が生み出されて、その交換の網の目がが地域を草の根のように覆っているわけではない。欧米が介入するまではそうではなかったのではないか。この富の一元化こそ、すべての悲劇の根源にあるように思います。
ビクトリア湖周辺においては、ナイルパーチ「だけ」が経済的価値があり、売春を余儀なくされる人も含めて、皆それに依存している(いうなればその「エサ」にされている)。そしてその価値の源泉は先進国に接続されることで始めて実質的な富となる。だとすれば、必然的にタンザニアは先進国に全面的に従属するしか生きる道がなくなる。地元の人が、ナイルパーチの「残り物」で命をつなぐしかない理由もここにありそうです。
生物多様性につながるかたちでの経済多様性、その両者を一時に粉砕されたがゆえの悲劇だと私には思われました。それと同時に思ったのは、タンザニアの状況は、ホッブスの「万人に対する万人の闘争」状態だということです。暴力が統制されていない戦争状態においては、そこに巻き込まれるすべての人間が貧しい状態におかれる、そこから離脱するには、強大な統治権力が必要だとホッブスは言いました。しかしタンザニアの場合は国家権力自体が戦争に巻き込まれているようなので、状況はさらに絶望的なようです。
フィレオフィッシュebiちゃん | 2007年02月04日 18:01
2007年02月04日 18:01
レスが遅れました。
ebiちゃんさんのおっしゃるのはなかなか難しい話ですが、国に国民の幸福を保証する力がないとか、ナイルパーチに基づくヒエラルキーがほかのすべての多様性を打ち砕いたというのとは別に、圧倒的に不利な状態におかれているように見えるタンザニアの人々が、現在の状態がそれなりによいと思っていることにも打ちのめされます。
確かにここには先進国の搾取と支配では片付けられない状況があります。そしてその状況は、固有の生物的・経済的多様性を破壊され、グローバリズムの末端に完璧に組み入れられたにもかかわらず、現状を受け入れてしまっているかのような人々によって一端を担われているように思えます。つまり彼らにとって、先進国主導の(タンザニアの生態・経済の価値基準をナイルパーチに一元化する)グローバリズムは、単に搾取と支配ではなく、ある意味では生活の支え、心の支えにまで浸透しているようなのです。
現状は幸福でも安全でもないはずなのに、現状やそれを生み出した価値のヒエラルキーを、むしろ前よりよいと当事者に言わしめ、よりよい外部(かつてあった多様性)すらも求めさせないほど巧妙に作動している構造もまた大きな問題のように思えます。
くるみ生姜 | 2007年02月13日 00:31
2007年02月13日 00:31