福岡サンパレスで年末恒例のベートーヴェンの交響曲第九番の演奏会(23,24日、福岡サンパレス)。第九作曲中のベートーヴェンと写譜師(楽譜を清書する人)とのハートウォーミングな交流を描いた『敬愛なるベートーヴェン』(右画像)も上映中(KBCシネマ)。(ちなみにこの映画では、第九初演の演奏シーンに10分以上も時間が割かれていて、この奇跡の楽曲の誕生に立ち会った人々がボロボロと涙を流す様が描かれている。感動的な傑作である。)第九に馴染みのない方にはNHKが放送する特集でも(12/27、19:00〜教育)。この時期、日本中(いや日本の特定の領域か・・・)が、「喜びの歌」に満ち溢れるのだ。そんなムードに水を差すお勧めのCDがあるので、その紹介を。
第9の聴き所は、終楽章の合唱だろう。合唱が入るまでの時間、延々と40分くらい、オーケストラだけの部分が続く(第1-3楽章)。第4楽章に入っても、最初は楽器だけの音楽だ。ここでは第1-3楽章のメロディが少しずつ回想されるが、それらはいちいち低音楽器の強力な一撃によって否定されてしまう。いかにも「それは違うのだよ」というように。これは「今までの(難しく作曲された楽器だけの)音楽ではダメで、今からみんなで合唱する「喜びの歌」こそ、一番素晴らしい音楽なのだ」という分かりやすいメッセージになっている。実際、「喜びの歌」のメロディがオーケストラで数回繰り返された後にようやく登場する男性の歌手も、「おお友よ、こんな音楽ではなく・・・」と歌いだす。それから改めて、「人間はみな兄弟となる」という理念を歌い始めるのだ。くどいくらい念入りにできているのである。
もっとも、そんな理念は建前だと思っている人がほとんどだろう。気にもされないほどに、この理念はアクチュアリティを失っている。日本では年末行事としてルーチン化した第九であるが、しかし20世紀後半の東ドイツでは、ケーゲルという指揮者のもと大真面目に演奏されていたらしい。もっともここで言う「真面目」とは、第九の理念に没入するあり方ではない。逆である。最近発売されたCD(ここをクリック。HMVでのみ販売。)で、ケーゲルは第九を批判的に捉え、大胆にディフォルメしながらアクチュアルな音楽として演奏しているのだ。
ケーゲルは、「第九のお祭り騒ぎには共感できない」と言って、第九を演奏する際には「ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌」を作曲したペンデレツキの作品などを組み合わせていたという。真面目な人なのである。そんなケーゲルは、上に書いた「おお友よ、こんな音楽ではだめなのだ・・・」という箇所を、歌手に厳粛かつ悲嘆にくれるように歌わせている。1-3楽章を否定して今から楽しくやろうといった意味(のはず)の歌詞が、第九全体の理念を否定するかのような重みを持って歌われているのだ。テンポも急ブレーキがかかったかのように、異様に遅い。そんな絶望的な境地から、「喜びの歌」がローテンションで歌われてゆく。
盛り上がる部分はやけに空虚だが、しかしゆっくりした部分になると、ケーゲルは非常に静かで美しい音楽を聴かせる。とくに数回出てくる「ブリューダーBruder」(ドイツ語で「兄弟」のこと)という言葉が、ため息をつくかのような憧れをもって歌われていて、はっとするほど美しい。ベートーヴェンの第九にこんな美しい箇所があったこと、そして何よりベートーヴェンが「Bruder」という言葉に特別な響きをあてていることがわかるだろう。
ケーゲルは、東ドイツ崩壊後の1990年にピストル自殺した。本当の原因はわからないが、社会主義の崩壊が、何かしらの原因になっていることは間違いないだろう。そんなケーゲルが、「人類みな兄弟」という理念を歌った第九を批判的に捉えながら、なおそこからアクチュアリティのある内容を引き出そうとする様には迫力がある。この上なく美しく歌われる「Bruder」は、失われた理念へのオマージュなのだろう。
虚無感と憧憬とが混在するケーゲルの第九は、「人類みな兄弟」という立派な理念に捧げられた哀歌のようだ。第九の理念が建前になってしまう直前の記録として、もっと言えばアートが立派な理念を背負っていた時代の記録として、2000円にも満たない安さなので、是非。(kagel)


