『ポニョ』と子供とハヤオの魔法(2/2)
『崖の上のポニョ』(監督:宮崎駿,2008)
(1/2からのつづき)
さて掃除は終わった。もうドラマな物語をやる必要もない。まだ時間はたっぷりある。『ハウル〜』のときみたく急ぎ足になることなく、今回は思う存分、二人のためだけに有機的な世界を描くことができそうだ。と、計画通りに、映画後半でのハヤオはやりたい放題である。
(1/2からのつづき)
さて掃除は終わった。もうドラマな物語をやる必要もない。まだ時間はたっぷりある。『ハウル〜』のときみたく急ぎ足になることなく、今回は思う存分、二人のためだけに有機的な世界を描くことができそうだ。と、計画通りに、映画後半でのハヤオはやりたい放題である。
この夏、『崖の上のポニョ』(宮崎駿)と『スカイ・クロラ』(押井守)が同時に公開されていた。『ポニョ』は賛否両論(子供の評判がいまいちらしい)、『スカイ〜』は評判が良いようだ。もっとも、老若男女・大多数が足を運ぶジブリ作品とアニメ好きが中心だろう押井作品では、評判に差が出て当然なのかもしれない。ただ皮肉なのは、どちらかと言えばコアな人向けの『スカイ〜』の押井が常識的な内容を物語ろうとするのに対し、万人向けとされる『ポニョ』のハヤオはいよいよおかしくなっている、という点だ。押井は、今更ながら「終わりなき日常を生きろ!」と言う。一方ハヤオはといえば、「人間なんてね、いなくなればいいんですよ」と笑いながら、のほほんと絵本を描いている。語るべきは『ポニョ』だろう。
まさに出色の出来だ。色とりどりの幾何学模様が画面を駆け抜け、見る者の目を射抜く。モンドリアンのそれと見まがうほど抽象化された図形や、巧みに取り込まれた実写画像が、キャラと同等の資格を持って画面に登場し、整然とした秩序を構成している。もっともそれらは、次の瞬間には高速で変転させられることによって、有機的とすらいえるうねりを生みだしている。その連なりのイメージは、あたかも生命が吹き込まれているかのようだ。これこそアニメ(「生き生きとした」)というジャンルを一つの極致にまで押し進めた作品といえよう。ほのぼの脱力系ながら、めくるめくシークエンスのリズムに躍動するアニメ。その名は『ひだまりスケッチ×365』。監督は新房昭之である(アニメーション制作:SHAFT/第一話演出・コンテ:尾石達也)。
人のセックスを笑うな (河出文庫)
作家の山崎ナオコーラさんの講演会に行ってきました(7/1@西南学院大学)。文学に興味のある方なら御存知の方も多いでしょう。ドネルモでも取上げられていた映画『人のセックスを笑うな』の原作者です。福岡出身埼玉育ち、まだ20代の若い作家さんで、初めての講演だったらしく、最初は緊張気味でした。が、お話はとても面白いものでした。「小説の役目は新しい男女関係を提示すること」etcいろいろ話されましたが、何より印象的だったのは、「作者の意図なんて考えず、積極的に誤読しましょう、それこそが読書で、そういう営みのうちに『小説』は成り立つのです! 」というナオコーラさんの「小説」に対する考え方でした。
love the world(初回限定盤)(DVD付)
来る7月9日(水)が何の日か、賢明な諸氏ならすでにお分かりのことだろう。Perfume(パフューム)のニューシングル「love the world」の発売日である。パフュームは、広島出身の3人組アイドルユニット。福岡には5月にライヴでやってきた。最近、西鉄天神駅のホームには「pino×Perfume」の大きな広告が。秋には日本武道館ワンマンライヴも決定。大人気なのである。女子3人組という点で、かつてのキャンディーズになぞらえられたりもする。きっとどっかの時代錯誤なおっさんが言い始めたに違いない。パフュームをキャンディーズになぞらえても何もわからないだろう。むしろ、初音ミクなのだ。パフュームを初音ミクになぞらえるとき、そこに今日アクチュアルに求められているものが見えてくる。
「踊りに行くぜ!! 福岡公演 出演者選考会+ダンスディスカッション」に行ってきた(6/22@あじびホール)。今秋開催予定の本公演(10/4@イムズホール)のための選考会である。年を重ねる毎に、福岡の選考会は着実に層が厚くなっている。今回は出場者が11組、選考会は5時間以上に及んだ。参加者も沖縄や岩国など福岡以外からも集ったようだ。選考会場はほぼ満席。恒例となったクリティカルレスポンスプロセス(ダンサーを交えた批評会のようなもの)でも積極的な発言がみられた。福岡のダンス波、いよいよ高し!
ところが選考会を観終えた私は、自己嫌悪に捉われていた。なぜか?どうにも私はこの波に乗れないからである。実際の風潮と私の印象は間逆の関係にあるわけだから、こうなると私に何らかの問題があるとしか思えない。楽しめない私がどこかできっと間違っているに違いない。以下の文章は、私の懺悔録である。
なんと破廉恥な!けしからん!と、学校のPTAなら怒り出すかも。ポール・トーマス・アンダーソン(通称PTA)監督の新作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の話である(〜6/13まで@シネテリエ天神)。もっと早くに観ておけばよかった。ロングランだったというから、福岡市民の多くも、この映画に破廉恥な妄想を抱いたに違いない。さすがは『ブギー・ナイツ』でポルノ業界をテーマにしたPTAだ。緻密な群像劇『マグノリア』、キュートなラブコメ『パンチ・ドランク・ラブ』に続くPTAの新作は、強烈な意志で石油を採掘するアメリカのオヤジ一代記だった。それは、母なる大地に掘削機をおったてて、飽くことなくピストン運動を続けるマザー・ファッカーの物語であった。つまりそれは、上から下へと何かが落ちたり、また下から上へと何かが吹き上げたりする、そんな上下運動に満ちたアメリカン・ポルノだったのである。
日本人によるクラシック演奏団体BCJ(バッハ・コレギウム・ジャパン)の演奏会に行ってきた(2008,6,12@アクロス福岡)。その演奏に透けて見えたのは、とある「逆襲」の計画である。それは、日本のクラシック演奏家をいじめてきた西洋近代の音楽観への「逆襲」だ。西洋近代音楽は、旋律やリズムや和声を不断に発展させる展開の妙にこそ、芸術的意義を見出した。そこで音楽は、記憶の芸術であり、聴き手の記憶の中で、感情のドラマになったり、巨大な構築物としてそびえ立ったりするものだった。そして演奏は、そういうプロセスを適切に表現すべきだった。
だがBCJは、この考え方に反発する。音楽を感情や知性で捉えるのではなく、ひたすら感性の次元で享受すべきものと考える。BCJよれば、音の背後に感情の起伏やら偉大な精神やら聴くなんて、おかしな話だ。音楽はもっと、純粋に音と人間が関わる局面にあるはずだ。そんな局面に、西洋近代音楽の出発点と目されているバッハを還元してしまおう。だってバッハは、いや音楽は、もともとそんな局面での営みのはずなのだから。そのようにして、BCJの逆襲計画は進んでゆくのである。